興宣大院君

李氏朝鮮の王族 / ウィキペディア フリーな 百科事典

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興宣大院君(こうせんたいいんくん、フンソンテウォングン、흥선대원군、大院王〈たいいんおう、テウォンワン〉、嘉慶25年12月21日1821年1月24日〉 - 光武2年2月2日1898年2月22日〉)は、李氏朝鮮末期の王族、政治家。字は「時伯」。号は「石坡」、「海東居士」。日本では、単に「大院君」と称される。本名は李 昰応(り かおう、イ・ハウン、이하응)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏高宗の実父。

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興宣大院君
宗親八世
大院君・大院王
摂政
Heungseon_Daewongun_Portrait.jpg
団領姿の興宣大院君
続柄 南延君第四子
字号 漢字:時伯
諺文:시백
発音:シベク
雅号 漢字:海東居士
諺文:해동거사
発音:ヘドンゴサ
諡号 漢字:献懿
諺文:헌의
発音:ホンウィ
出生年 1821年1月24日
出生地 Flag_of_the_king_of_Joseon.svg 李氏朝鮮
漢城府
没死年 1898年2月22日
没死地 Flag_of_Korea_%281899%29.svg 大韓帝国
漢城府
配偶者 驪興府大夫人閔氏
子女 完恩君
完興君
高宗
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1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年フランス神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変で閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく、1898年に79歳で死去した。

大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、生前この称号を得た(つまり「大院君」としての事績がある)のが、興宣大院君のみであることと、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。