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平安時代中期の公卿。藤原公季の長男。正二位、中納言、大宰権帥。 ウィキペディアから
藤原 実成(ふじわら の さねなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流、太政大臣・藤原公季の長男。正二位、中納言、大宰権帥。
一条朝初頭の永延2年(988年)従五位下に叙爵すると、翌永延3年(989年)従五位上・侍従、永祚2年(990年)右兵衛佐に叙任される。しかし、正暦2年(991年)少納言、長徳元年(995年)従四位下・兵部大輔と近衛少将を経ずに官途を進めた。
長徳2年(996年)の長徳の変を通じて権力の座についた左大臣・藤原道長のもとで、長徳3年(997年)父の藤原公季が内大臣に就任すると、実成も長徳4年(998年)に右近衛中将に任ぜられ、長保3年(1001年)従四位上次いで正四位下、長保6年(1004年)蔵人頭(頭中将)と昇進し、寛弘5年(1008年)従三位・参議に叙任されて公卿に列した。
議政官として、中宮・藤原彰子の中宮権亮や左兵衛督(検非違使別当)を務め、この間の長和2年(1013年)正三位に昇叙されている。長和4年(1015年)父・公季の左近衛大将辞任の替わりに権中納言に昇進し、その後後一条朝で寛仁2年(1018年)従二位、治安3年(1023年)中納言に叙任され、万寿元年(1024年)正二位に至る。
長元6年(1033年)大宰権帥を兼任する。しかし、長元9年(1036年)実成の郎等であった源致親が大宰府天満宮を支配していた安楽寺の雑物を盗んだことが原因で、安楽寺から訴えられてしまい、長暦2年(1038年)中納言兼大宰権帥を解任されて、除名された。なお、此の紛争の原因となった源致親は隠岐への流罪に処せられた[1]。長暦4年(1040年)本位の正二位に復している。
人相を見るに見識があり、藤原道長三男の顕信が自身の娘との結婚を望んでいることを知ると、顕信に出家の相が出ているとしてこれを断った(娘は顕信の弟能信と結婚)。果たして顕信は後に出家したので、その人を見る目の確かさを『大鏡』の中で賞賛されている。
『公卿補任』による。
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