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日本の江戸時代の人物。足利義氏と浄光院の長女。足利国朝の正室。 ウィキペディアから
足利 氏姫(あしかが うじひめ[1]/あしかがの うじひめ[2]、天正2年(1574年) - 元和6年5月6日(1620年6月6日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性。文献などでは「氏姫」、「氏女」と表記されることが多い[3] [4]。院号は徳源院。長く分裂して対立してきた古河公方家と小弓公方家を統合し、喜連川公方家への橋渡しをする役割を担った。
天正2年(1574年)、第5代古河公方足利義氏と北条氏康の娘浄光院との間に生まれる。
天正11年(1583年)に父が死去すると、弟の梅千代王丸は既に死去していたため、9歳にして古河公方家の家督を事実上相続した[5]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって戦国大名としての後北条氏が滅亡すると、古河周辺で戦闘があった記録はないが、当時の古河公方は後北条氏の庇護下にある実質的な傀儡だったため、氏姫は古河城の立ち退き[6]を命じられた。古河公方の所領は鴻巣御所(古河公方館)周辺の300石余[7]を残して召し上げられたため、氏姫は鴻巣御所に入った。翌天正19年(1591年)、秀吉の命により祖父の代より敵対していた小弓公方・足利義明の孫・足利国朝と結婚した。これにより、義明が自立した永正年間以来80年ぶりに関東の足利両家は統一されることになった。秀吉はこの時国朝に喜連川領400貫(3500石相当)を与え、国朝はすぐに喜連川に入ったものの、氏姫は古河公方嫡流の意地を通して鴻巣御所に住み続けた。
文禄2年(1593年)に国朝が文禄の役に出陣する途中安芸国で病死したため、その弟である足利頼氏と再婚した。この頼氏との間に義親と一女が誕生している。その義親が生まれた直後に起こった関ヶ原の戦いに頼氏は参陣しなかったが、直後に家康のもとに戦勝祝賀使を遣わしたことが評価され、翌年頼氏には1000石を加増の上、喜連川4500石が安堵された。これにより喜連川藩が事実上立藩したが、その後も氏姫は相変わらず鴻巣御所に住み続けている。
元和6年(1620年)5月に46歳で死去した。鴻巣御所近くの芳春院に葬られ、同寺は氏姫の院号にちなんで徳源院と改められた。
氏姫の死後も、義親は寛永6年(1629年)に死去するまで鴻巣御所に住み続け、さらに孫に当たる尊信も寛永7年(1630年)に祖父・頼氏の病死により喜連川藩を継承するまで鴻巣御所に住み続けていた。
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