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1548-1586, 戦国時代~安土桃山時代の武将 ウィキペディアから
高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
天叟寺所蔵 | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文17年9月24日(1548年10月25日) |
死没 | 天正14年7月27日(1586年9月10日) |
改名 | 千寿丸(幼名)→吉弘弥七郎→鎮理、高橋鎮種→紹運(号) |
別名 |
通称:弥七郎、三河入道、主膳兵衛、主膳入道(仮名) 渾名:乱世の華、風神、戦神の化身、弓矢八幡・摩利支天の化身[1] |
諡号 | 紹運、紹雲 |
神号 | 三岩霊神、性海霊神 |
戒名 | 天叟院殿性海紹運大居士 |
墓所 |
福岡県太宰府市の西正寺 岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓 福岡県柳川市の天叟寺 福岡県大牟田市の紹運寺 |
官位 | 主膳正 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 大友宗麟→義統 |
氏族 | 吉弘氏→高橋氏 |
父母 | 父:吉弘鑑理、母:大友義鑑娘(貞善院義誉静音)[2] |
兄弟 | 吉弘鎮信、紹運、女(戸次鎮秀室)、尊寿院(大友義統室) |
妻 |
正室:斎藤鎮実の妹・宋雲院[注釈 1][注釈 2] 側室:萩尾大学の娘・松尾殿[異説][3] |
子 |
立花宗茂、統増、市郎丸(統重)[異説]、某[異説][注釈 3] 娘・甲斐/信解院(立花成家室)[4]、娘・於千代/栄長院(小田部統房室)、娘・退清院[注釈 4](大友義乗室)、娘・嘉也/慈光院(立花親家室後に細川興元室) |
紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。
天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城[5]に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている[6]。永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。
永禄11年(1568年)、立花鑑載討伐の時、ある夜襲の作戦で兵士を励むために、自分の握飯を食べて配下たちにも与え食べさせ、士気を上げたという[7]。
永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた[8]。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる[9]。
天正6年(1578年)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死。肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。
その後、紹運含む大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮正[注釈 5]、大津留鎮忠[注釈 6]、荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 7]、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実・筑紫広門・原田隆種・原田鑑尚[注釈 8]、龍造寺隆信、宗像弾正[注釈 9]、麻生元重[注釈 10]、杉連並、問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。
天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした[141][142][143][144][145]。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗北すると、大友氏は失地回復の好機と見て3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、山険難所を越え[注釈 11]、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。20日に道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から佐賀へ戻った[147][148]。つづいて犬尾城の川崎重高(河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の大籠山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった[149][150][148][151]。
28日[注釈 12]には道雪一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 13]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[注釈 14]が勇戦して数人を討ち取って城の外郭を壊したが、城主西牟田氏の率いる300城兵の激しい抵抗に遭って100余りの死傷者を出した[注釈 15]。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・小保などの集落を焼き払って、折地、古島、水田を経て柳川の城下町に至った。城主の龍造寺家晴が籠城に徹したことで[157]、両将は城下町を焼いた後、軍勢を転じて高良山にいた大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月1日(一説には5日)[158]に落城させて黒木家永は自害した[147][159][160][161]。
9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏・攻落した。この間の9日に柳川城周辺に小競合いがあり[162]、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払った。そしてもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。 次に筑後最大の処点・柳川城の攻略を始めようとしたが、この城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、10月4日、両軍は草野鎮永[163]の竹井城を進攻しこの城を焼却した。28日、発心岳城に逃げ込んだ草野を追撃したが、天険を利用して築いたこの城は容易く落ちることができないので、兵を転じて星野吉実の鷹取城・星野城(山ノ中城)・福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて牽制する[164]、さらに秋月領の甘木、甘水辺りまで焼き討ちした後、もう一度三潴郡の諸城を掃討した。その際、田原親家と秋月軍との戦いは敗れたので、道雪と紹運は高良山に戻って朽網鑑康、志賀親守らと合流し、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える[165][166][167]。
天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・江上家種・後藤家信・筑紫広門・波多親・草野鎮永・星野吉実・秋月種実・問註所鑑景・城井鎮房、長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野[168][169]、十三部[170]、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[171][172] で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、兵法・戦術や兵器・陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった[173][174][175]。
天正13年(1585年)9月、道雪が病没[176][177][178][179]。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する[180][181]。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた[182][183]。
天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上[184][185]。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し、半月に及ぶ戦い(岩屋城の戦い)の末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39[186][187][188][189][190][191]。
激戦の様子について、
などと記されている。
紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。
墓所は家臣・藤内重勝が開いた福岡県太宰府市の西正寺、岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓、子の柳河藩初代藩主・立花宗茂が建立した福岡県柳川市の天叟寺と孫の三池藩初代藩主・立花種次が建立した福岡県大牟田市の紹運寺[192]。
子孫の三池藩六代藩主立花種周と七代藩主立花種善は、文化二年(1805年)奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)に移封となり、天保6年(1835年)種善の長男・下手渡藩二代藩主立花種温の代に紹運の義烈を顕彰すべく、7月5日には紹運に性海霊神の神号が贈神されて神祇伯に請いて三笠神社が創建された。明治維新により三池復封となり明治3年遷座、明治4年縣社に列せられ明治16年火事により明治29年8月現在地に遷座された。以後三笠神社は郷土の発展とともに武勇の神をまつる神社として広く尊崇されている[193]。
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