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ある勇気の記録
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『ある勇気の記録』(あるゆうきのきろく)は、1966年10月7日から1967年5月26日までNET(現・テレビ朝日)で毎週金曜21:00 - 21:56(JST)に放送されたテレビドラマ。全34回。制作はNETと中国放送(RCC・TBS系列)、東映。
続編『挑戦者 続・ある勇気の記録』(ちょうせんしゃ ぞくあるゆうきのきろく)も制作された(1967年6月2日から9月30日まで、全18回)。本項で併せて記述する。
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概要
原作はノンフィクション作品『ある勇気の記録 -凶器の下の取材ノート-』。1963年から1967年まで、広島市周辺で起こっていた第二次広島抗争時に中国新聞社が「暴力追放キャンペーン」と銘打ち、1963年から1965年まで広島市と呉市を中心に取材・報道活動を行い、そのペンの力で暴力団に敢然と立ち向かった成果を出版したもので、1965年(昭和40年)の第13回菊池寛賞を受賞した。撮影は実際に広島県で行なわれ、セミドキュメンタリー作品として制作された。
番組の冒頭で「この一篇を 暴力と斗(たたか)い 暴力に勝った 広島市民にささげる」というテロップが登場していた。
制作の経緯
NHKで放送されていたテレビドラマ『事件記者』が1966年3月29日をもって終了したが番組は人気を保っていたため、複数の民放が出演者や作者の島田一男を引き取って、『事件記者』の放送を続けようと考えた。
しかし、各放送局が提示してきた条件を巡って出演者や島田が2グループに分かれ、それぞれNET(現・テレビ朝日)とフジテレビで出演することになってしまい、本作の企画に賛同してNET側に行った滝田裕介、近藤洋介、山田吾一、前田昌明、谷沢裕之、高城淳一、永井智雄、藤岡重慶、綾川香らの俳優陣が出演したのが本作である(島田はフジテレビ側に行った)[1]。
当時、舞台となった広島県にNET系列局が所在せず[2]、特例としてTBS系列局のRCCが制作に参加するという形態となった。
放映データ
- 放映期間:1966年10月7日〜1967年9月30日
- 放映曜日・放映時間帯:
- 毎週金曜日21時〜21時56分(1966年10月7日〜1967年6月30日まで)
- 毎週土曜日22時〜23時(1967年7月8日〜1967年9月30日)
- 放映話数:全52話
- 放映形式:モノクロ16mmフィルム
キャスト
- 宮口キャップ:滝田裕介
- 村田記者:近藤洋介
- 若原記者:山田吾一
- 志摩記者:前田昌明
- 安倍記者:谷沢裕之
- 山崎デスク:高城淳一
- 岡田社会部長:永井智雄
- 大沢二課長:高松英郎
- 芥部長刑事:藤岡重慶
- 塩原刑事:綾川香
- 杉山:入江洋佑
- 植木:長島隆一
- 由香:宮裕子
- 佐智子:栗原すみよ
- 久美子:茅島成美
- 梅津栄
- ある勇気の記録のみの出演者
- 室田日出男[3]
- 芦田:井上昭文
- 亜紀子:北あけみ
- 岩上:伊沢一郎
- 江戸川組長:佐々木孝丸
- 河辺(大矢根組):植村謙二郎
- 美子:柳川慶子
- 大矢根組長:南原宏治
- 江戸川組幹部・塚本:戸田皓久
- 柿沼(江戸川組):大友純
- ナレーター:田口計
スタッフ
放映リスト
要約
視点
「ある勇気の記録」
「挑戦者 続・ある勇気の記録」
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備考
- 当時はまだ抗争の最中だったため、何の妨害もなく広島ロケは可能か懸念された。本作の第1話の試写が広島市内で行われた際に、70人の地元の暴力団員が見に来た[4]。地元のある暴力団の組長が「ワシの目の黒いうちは妨害はさせん」と言ったという[4]。スタッフは安心して撮影する事が出来た。
- 当時中学生だった池上彰は、このドラマを見てジャーナリストを志す事を決めた[5]。彼のようにこのドラマを見てジャーナリストを志した者は多かったが、『仁義なき戦い』に比べて知名度は圧倒的に低い。ソフト化などもされておらず、映像が現存しているかも不明である。
- 『仁義なき戦い』の映画化と同様、暴力団追放のキャンペーンにもなると考えた広島県警察が当初協力をしてくれたという[6]。
関連項目
- 広島抗争
- 仁義なき戦い - 抗争の当事者である美能幸三の手記をもとに書かれたノンフィクション。広島抗争を当事者の側から描いている。共通の出演者も多い。
- 事件記者 (テレビドラマ)
- 中国新聞社
文献
脚注
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