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アンディ・メサースミス
アメリカの野球選手 (1945 - ) ウィキペディアから
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ジョン・アレクサンダー・メサースミス(John Alexander Messersmith, 1945年8月6日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州トムズリバー出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。ニックネームは「Bluto」,「Channel」。
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経歴
要約
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カリフォルニア・エンゼルス
1965年のMLBドラフトでデトロイト・タイガースから3巡目に指名を受けるが契約せず。1966年のMLB二次ドラフトでカリフォルニア・エンゼルスから1巡目(全体12位)に指名を受け入団。1968年6月13日のボストン・レッドソックス戦でメジャーデビュー。9月6日の同カードでは6四球を与えたが、被安打2でメジャー初完投・初完封を達成した。1969年は開幕から5連敗を喫するが、6月・7月で10勝を挙げるなどチーム最多の16勝・防御率2.52・211奪三振を記録。1970年は初の開幕投手となり完封勝利を挙げるが、8月途中からリリーフに回り、11勝10敗・防御率3.01の成績。1971年はオールスターゲームに初選出される。後半戦で12勝5敗・防御率2.17と調子を上げ、20勝13敗・防御率2.99を記録し、サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。1972年は2度目の開幕投手となり再び完封勝利を挙げるが、故障もあって8勝11敗に留まる。11月28日にフランク・ロビンソン、ビル・シンガー、ボビー・バレンタインら5選手との交換トレードで、1選手と共にロサンゼルス・ドジャースへ移籍。
ロサンゼルス・ドジャース
移籍1年目の1973年は14勝10敗・防御率2.70。1974年は前半戦で11勝2敗・防御率2.11を記録し、3年ぶりにオールスターゲームに選出されて先発投手を務めた。シーズン通算でフィル・ニークロと並ぶ20勝、スティーブ・カールトンに次ぐリーグ2位の221奪三振を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームの地区優勝に大きく貢献し、ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでも第2戦に先発して勝利を挙げ、リーグ優勝に導いた。オークランド・アスレティックスとのワールドシリーズでは2試合に先発したがいずれも敗戦投手となり、チームも1勝4敗で敗退しワールドチャンピオンはならなかった。サイ・ヤング賞の投票では、106試合登板のメジャー記録を樹立したチームメイトのマイク・マーシャルに次ぐ2位だったが、初のゴールドグラブ賞を受賞した。オフに球団との契約交渉が決裂し、契約書にサインしないまま1975年のシーズンを迎えることになる。球団はオプションとして契約を1年延長する権利を行使する、という形を取った。
同年はいずれもリーグ最多の40先発・19完投・7完封・321.2イニング、リーグ3位の19勝、リーグ2位の防御率2.29を記録するなど大活躍し、前年に続いてゴールドグラブ賞を受賞。オフに調停を申請し「1975年はオプション年としてプレイしたのであり、球団にはもはや拘束する権利はなく、現在はどこの球団にも所属していない」と主張した。裁定の結果「球団との契約の期限が切れたら他の球団と交渉するのは自由」という判断が下され、フリーエージェント制度が生まれるきっかけとなった。
1976年4月10日にアトランタ・ブレーブスと3年総額100万ドルで契約。同年は11勝11敗・防御率3.04とまずまずだったが、1977年は5勝に終わり、12月7日にニューヨーク・ヤンキースに移籍。1978年は故障もあってわずか6試合の登板で0勝3敗に終わり、11月6日に解雇。1979年2月7日に古巣のドジャースに復帰するが、2勝に終わって8月28日に解雇され、引退。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多勝利 1回:1974年
表彰
- ゴールドグラブ賞 2回:1974年, 1975年
- MLBオールスターゲーム選出 4回:1971年, 1974年 - 1976年
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外部リンク
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