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アンドレア・モンテルミーニ

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アンドレア・モンテルミーニ
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アンドレア・モンテルミーニAndrea Montermini, 1964年5月30日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバーである。モンテルミニと表記されることもある。

概要 アンドレア・モンテルミーニ, 基本情報 ...
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経歴

要約
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ジュニアフォーミュラ

イタリア・フォーミュラ・アルファでランキング3位となり、1988年からイタリアF3選手権へステップアップ。1989年モナコグランプリ前座のF3で2位表彰台に立つ。同年のイタリアF3でも1勝を挙げ、ランキング4位となる[1]

F3000

1990年から国際F3000選手権にステップアップ、ナイジェル・マンセルが共同オーナーとなったマンセル・マジウィック・モータースポーツに抜擢され開幕戦からポールポジション獲得など速さを見せるも[2]、リタイアが多くシーズンを通じた成績ムラがありランキングは8位となった。同年にF1のBMSスクーデリア・イタリアのテストドライバーとして起用され、モンツァ合同テストでダラーラ・BMS190を駆りF1ドライブを経験。翌1991年もテストドライバー契約が延長された[3]

1991年、3001インターナショナルに移籍。チームメイトは前年もマジウィックで同僚だったジャン=マルク・グーノンが移籍してきたことで2年続けてのコンビとなった。しかしチームがF3000では新興メイカーとなるラルト製シャーシを採用し、実績あるローラ勢やレイナード勢を相手に劣勢であったが、第2戦ポー市街地と第6戦ホッケンハイムでファステストラップを記録、ランキングは10位となった。同シーズンはF1スクーデリア・フェラーリのテストドライバーに抜擢され、641/2642を使用したデータ収集に従事、F1予備軍と呼ばれるようになっていた。シーズンオフにはヴェンチュリ・ラルースのテストに参加しベルトラン・ガショーとのシート獲得競争となったが、ジェラール・ラルース片山右京のチームメイトとしてガショー起用を決めたため、一旦F1行きを断念してF3000参戦をもう1年続けることになった。

1992年にイル・バローネ・ランパンテに移籍、前年にイギリスF3チャンピオンを獲得した19歳の若手ルーベンス・バリチェロがチームメイトとなった。モンテルミーニは予選でバリチェロよりも速く、第2戦ポー、第3戦カタロニアと連続ポールポジションを獲得。ポーではリタイヤだったが、カタロニアではポール・トゥ・フィニッシュで国際F3000参戦3年目にして初優勝を挙げる。第7戦スパからはフォルティ・コルセに移籍し、その初戦でPP・FL・優勝のハットトリックを決める。トータルではシーズン3勝、4度のポールポジションと活躍し、ルカ・バドエルに次ぐシリーズランキング2位を獲得。

F1

1993年からのF1レギュラー参戦を希望するも交渉は実らず、ベネトンのテストドライバーとして契約。テストスケジュールの合間を縫いインディカーに参戦し、第6戦デトロイト(ベル・アイル・パーク)では4位入賞の結果を残す。

1994年第3戦サンマリノGP予選で事故死したローランド・ラッツェンバーガーの後任としてシムテックと契約、F1の実戦にデビューする。ところがデビュー戦となった第5戦スペインGPで予選中に最終コーナー立ち上がりでコースアウトしクラッシュ。フロントから斜めにウォールヒットしたマシンは左向きに回転しながらホームストレート中央で停止。メインモノコックが折れてしまい、モンテルミーニの両足が折れたマシンから見えているような状況で、モンテルミーニはヘリコプターで緊急搬送されたため、予選落ちとなった。診断の結果、足の踵と爪先の亀裂骨折を負っていた。

Thumb
パシフィックのマシンをドライブするモンテルミーニ(1995年イギリスGP

1995年パシフィックに移籍。マシンの戦闘力が無く、最高位はドイツGPの8位だった。チームは同年限りでの撤退となり、新たなシートを探すこととなった。

1996年、F3000時代に所属した古巣であり、前年よりF1参戦を開始していたフォルティに移籍[4]。しかしフォルティにとって新規導入された予選107%ルールが高い壁となり、モンテルミーニも4度の予選落ちをし、第10戦イギリスGPを最後にチームのフォードエンジン使用料不払いにより供給をストップされ、フォルティはF1撤退となった。

1997年、新規参戦チームのマスターカード・ローラのテストドライバーとして契約したが、開幕戦のオーストラリアGPでローラのあまりの不振にスポンサーであるマスターカードが即時撤退してしまい、チームは存続不可能となった。モンテルミーニのF1との関わりはこれが最後となった。

スポーツカーレース

その後はFIA GT選手権IMSAル・マン24時間レースなどスポーツカーレースに参戦する。ルマン24時間レースでは1998年と1999年に総合6位となった。2008年のInternational GT Openでは総合優勝を達成した。

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レース戦績

要約
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国際F3000選手権

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F1

(key)

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インディーカー・シリーズ/CART

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ル・マン24時間レース

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関連項目

脚注

外部リンク

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