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インノケンティウス3世 (ローマ教皇)
第176代ローマ教皇 ウィキペディアから
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インノケンティウス3世(インノケンティウス3せい、Innocentius Ⅲ、1161年2月22日 - 1216年7月16日)は、12世紀末から13世紀初頭にかけての第176代ローマ教皇(在位:1198年 - 1216年)。本名はロタリオ・ディ・コンティ(Lotario dei Conti)。教皇権全盛期時代の教皇で、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王、フランス王の破門、第4回十字軍によるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの占領、中世カトリック教会史上最大の公会議と言われる第4ラテラン公会議の招集など、強大な教皇権を実現した。聖界の教皇権が世俗の皇帝権に優越するとの意味で、「教皇は太陽、皇帝は月」の言葉を残した。
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生涯
要約
視点

1161年、イタリア中部、アナーニ近郊のガヴィニャーノで生まれた[1]。コンティ家は、裕福な伯爵家で、彼を含め4人の教皇と9人の枢機卿を輩出したことで有名である。1187年から1189年にかけて、パリ大学で神学を、ボローニャ大学で法学を学んだ。法学に精通した彼は、教皇在位中、カノン法の大規模な理論的実装を行った[2]。1191年には若くして枢機卿になった。枢機卿時代に、600ページにも及ぶ神学の教科書「人間の悲惨さについて」を著し、以降数世紀に渡って教材として人気を博した。1198年1月8日、ケレスティヌス3世の死去に伴うコンクラーベにおいて、37歳の若さで教皇に選出された。ケレスティヌス3世は別の人物を強力に押していたが、たった2回の投票でインノケンティウスに決まった。同年のうちに、インノケンティウスはローマ帝国領であったスポレート公国、アンコーナ、トスカーナ辺境伯への占有回復権を行使し、11月に死去した王母コスタンツァのあとを受け、シチリア王フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ2世)の後見となった[3]。1201年にこれらの帝国領はローマ王オットー4世により正式に教皇領とされた(ノイス条約)[3]。また、同じく即位年に、北ヨーロッパやバルト海沿岸部分へのキリスト教世界拡張を図る北方十字軍を正式に承認した。
1202年にはイスラム勢力の中心だったアイユーブ朝でアル=アーディルが即位して反撃の兆しが見えたため、第4回十字軍を提唱する。この呼びかけには主に北フランスの諸侯達が応じた。しかし海路の輸送をヴェネツィア共和国に頼ったこの十字軍は、支払う輸送料を賄えなかったためにヴェネツィア共和国の利益を重んずるかたちで進軍し、キリスト教徒の町であるザーラを襲い占領して略奪を行なった。これに激怒したインノケンティウスは、そもそも彼が提唱した十字軍を全て破門するという前代未聞の事態となったが、この十字軍はさらに進軍してビザンツ帝国の帝位争いに介入し、1204年に首都のコンスタンティノープルを征服した。さらに周辺の都市も占領し、ラテン帝国を建設した(半世紀後にビザンツ帝国は復興)。これを受けたインノケンティウスは、一転してラテン帝国を承認し祝福を与えた。その結果、ラテン帝国では、コンスタンティノープル総主教以下のギリシア人主教は全員罷免され、新たにコンスタンティノポリス総大司教座が設置されて教区制度は破壊された。さらには教会や修道院の財産が没収されたほか、ローマカトリック教会の信条を唱えることが強制され、拒否した者は処刑となった。1054年の東西教会の分裂以降、双方による分裂解消の試みが続いてきたが、この出来事によって東西教会の関係性は完全に修復不可能な状態となった。ちなみに、少年十字軍の悲劇が起こったのも、インノケンティウスの時代である。
当時、ヨーロッパ諸国は、第3回十字軍で、絶大な権力を誇っていた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が事故死(1189年)、さらにはその後の皇帝ハインリヒ6世も急死(1197年)によって不安定化し、ヴェルフ家のオットー4世とローマ皇帝フリードリヒ2世の後見人であるホーエンシュタウフェン家のフィリップとの間で激しい帝位継承争いが生じていた。インノケンティウスは、この帝国の混乱に乗じて、アンコーナ、スポレート、ペルージャなどのイタリアの都市からローマ皇帝ハインリヒ6世が生前に配置した封臣を追放し、トスカーナで形成された反帝国の都市同盟を教皇の保護下に置くことに成功していた。彼はさらにローマ帝国とシチリアの分離、中部イタリアでの教皇権の回復を目指し、貧しくて支持者の少ないオットーなら教皇の傀儡が可能と見定めて、1201年にオットーを唯一の正当なローマ皇帝として認め、神聖ローマ皇帝選挙における教皇の介入の先例を作った。この時、皇帝の世襲制の禁止や、教皇による皇帝適性審査権を主張し、諸侯達の支持を得た。オットーからは見返りとして、中部イタリアにおける教会の権利の保障、シチリア王国に対する教皇の封主権の承認、イタリア政策における教皇の意向の尊重を得た。しかしながら、フィリップは戦闘で連勝を重ねて内戦で優位に立ち、さらにはオットーの資金源であるイギリスがフランスとの戦争に敗戦したことで、フィリップのオットーに対する勝利は確定的な情勢となった。これを受けて、インノケンティウスはフィリップの破門を解き、神聖ローマ皇帝としてローマでフィリップを戴冠することを約束した。しかし、フィリップは、1208年、姪のベアトリス2世の結婚式を祝っていたところバイエルン公ルートヴィヒ1世の従兄弟であるヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世の手によって暗殺された。この時、インノケンティウスがオットー8世と計った可能性が指摘されている。この事件によって、帝国を構成するドイツ南東部の有力勢力のバイエルン一族が互いに反目し合う事態となった。結果的に、1209年、オットーはローマにて神聖ローマ皇帝に戴冠された。しかし、オットー4世は、インノケンティウスとの誓約を反故にして、イタリア南部に侵入して勢力の拡大を図った。よって、インノケンティウスは、1210年、神聖ローマ皇帝であるオットーを破門[4]。1211年には、自分と敵対したフィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けて、選帝侯達の支持を失いフリードリヒとの戦いにも敗れたオットーを廃帝に追い込んだ。
イングランドでは、1205年にカンタベリー大司教が亡くなると、修道士達が選んだ後継候補とイングランド国王ジョンと司教が推薦した後継候補が、教皇の裁定を求めてインノケンティウスとローマで謁見するが、彼は両者とも退け、代わりに枢機卿のラングトンをカンタベリー大司教に任命した。ジョンはこの決定に激しく抵抗し、教皇派の司教たちを追放して教皇領を没収したため、1207年にインノケンティウスはイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した。これに対し、ジョンは没収した教会領の収入で軍備増強を図るなど両者の対立はエスカレートした。1213年、インノケンティウスはフランスのイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンは教皇の許しを得るために、イングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となることでやっと破門を解かれた。
フランスでは、フランス国王フィリップ2世の離婚問題が1196年に表面化したが、インノケンティウスは即位年の1198年に早くもフィリップを破門し、フランスを聖務停止にした。フィリップはイギリス王ジョンとの戦いで教皇の支持を必要としたため、1201年、インノケンティウスの要求に屈して、後妻のバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公ベルトルト4世の娘アニェスと分かれ、1203年には、幽閉されていた前妻デンマーク王ヴァルデマー1世の娘インゲボルグを呼び戻して王妃として再び処遇した。
イベリア半島では、1204年にはレオン王アルフォンソ9世を、結婚の問題を巡って破門した。また、ローマにてペドロ2世をアラゴン王に戴冠した。さらに、ムワッヒド朝への十字軍派遣を目的に、カスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王ペドロ2世と、レオン王アルフォンソ9世とナバラ王サンチョ7世の間の紛争に介入し、1209年に両陣営を和睦させた。1212年には、アルフォンソ8世、ペドロ2世、サンチョ7世がナバス・デ・トロサの戦いに参戦し、ムワッヒド朝アミール・ムハンマド・ナースィルを打ち破った。これ以降、イベリア半島のキリスト教諸国は、イスラム勢力に対するレコンキスタで優位に立った。
インノケンティウスは、異端も厳しく取り締まり、1209年には、フランス南部で盛んになっていたアルビ派にアルビジョア十字軍を派遣して弾圧した(没後の1229年まで継続)[5]。その一方で、1210年には、福音書に書かれた生き方の素朴な実践と、愛と平和の重視を説くアッシジのフランチェスコとローマで会見し、フランシスコ会修道会を承認した。フランチェスコの活動は、当時のカトリック教会の基準からすると異端とみなされる危険性をはらんでいたが、インノケンティウスは初めはフランチェスコのみすぼらしい恰好に辟易したものの、数回に及んだ会見を通して彼の純粋な活動に理解を示した。フランチェスコの保護や枢機卿時代の著作などから見て取れるように、インノケンティウスの教皇権の駆使の根底にあったのは、世俗の国王達のような領土拡張的な野心によるものではなく、神に選ばれたのでも能力でもなく世襲でその地位にある国王より、所定の過程を経て神に選ばれた教皇の方が、福音の実践による統治において優れているとの信念からくるものだった。教皇領の拡大によって世俗の領地を教会の支配下に置くことで、長年にわたる絶え間ない紛争を終わらし、諸国間に平和をもたらすことができると考えていた。そのために、教皇領におけるよりよい統治を目指し、インノケンティウスは教会法(カノン法)の本格的な整備も行った。
1215年、中世カトリック教会史上最大の公会議とも称される第4ラテラン公会議を招集。大司教、司祭、修道院長ならびに、ヨーロッパ諸国の王や諸侯ら1500人が出席し、まさに絶頂期にある教皇権を如実に示すものとなった。公会議では、アルビジョア十字軍派遣、フリードリヒ2世のドイツ王戴冠の承認など、教皇権の皇帝に対する優位性を知らしめる決議が承認された。この公会議中に「教皇は太陽、皇帝は月」との有名な演説を行った。グレゴリウス7世の叙任権闘争をはじめとして強化されてきた教皇権が最高潮に達した瞬間と言える。しかしながら、翌1216年に、インノケンティウスは絶頂期のまま55歳で急死した。以後、コンティ家はグレゴリウス9世、アレクサンデル4世、インノケンティウス13世と3人の教皇を輩出した。インノケンティウスの在位中に頂点に達した教皇権であるが、彼の死後、巨大化した教皇の権力は逆に教皇選出を巡った世俗権力の介入を強く受けるようになり、広大なローマ教皇領は各地で教会の腐敗を生み、早くも13世紀末には十字軍を招集する力、つまりヨーロッパ諸国を従える力と民衆を熱狂させる力を失った。さらに、1303年のアナーニ事件による教皇の幽閉、1309年の教皇のバビロン捕囚、1378年の教会大分裂(シスマ)と、教皇権は衰退の一途を辿ることになった。
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脚注
参考文献
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