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エド・ウォルシュ
アメリカ合衆国の野球選手 (1881-1959) ウィキペディアから
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エドワード・オーガスティン・ウォルシュ(Edward "Ed" Augustine Walsh, 1881年5月14日 - 1959年5月26日)は、アメリカペンシルベニア州プレインズ出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。愛称はビッグ・エド(Big Ed)。
通算防御率1.82はMLB歴代1位。1946年にアメリカ野球殿堂入りを果たした。息子のエド・ウォルシュ・ジュニアもMLB選手[1]。
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経歴
1904年5月7日にシカゴ・ホワイトソックスでMLBデビュー。
スピットボールをマスターした3年目の1906年に[2]、17勝13敗・10完封を記録。同年のワールドシリーズでも2勝を挙げる。
1907年にアメリカンリーグ最多の422.1回・防御率1・60を記録して、最優秀防御率のタイトルを獲得した。この頃から手抜きをせずに初回から全力で投げる投球を心掛けるようになった[2]。
1908年には66試合にも登板。40勝15敗で最多勝・リーグ最多奪三振269・防御率1.42の活躍。この年のシーズン40勝は1901年以降のMLBでは他に1904年のジャック・チェスブロしか達成していない記録である。
以後は1912年までホワイトソックスのエースとして活躍する。1906年からの6年間で、登板回数リーグ最多が5回、先発回数リーグ最多が3回、投球回リーグ最多が4回など、非常に投球回数が多かったものの、一方で防御率は1906年から1910年の5年連続で1点台、最も悪い年でも1911年の2.22であった。
1911年8月27日には対ボストン・レッドソックス戦でノーヒットノーランを達成した。
1912年は62試合に登板。27勝17敗に加えてリーグ史上初の年間二桁セーブ(10)を挙げたが、シーズン終盤から腕に違和感を覚えるようになる[2]。
1913年からは強烈な腕の痛みに苦しみ、登板回数は激減した。
1917年7月20日にボストン・ブレーブスへ移籍。12月28日にブレーブスから放出され、現役を引退した。
1923年からホワイトソックスのコーチを務め、1924年に3試合だけホワイトソックスの監督としてチームを指揮した。戦績は1勝2敗である。
1946年にベテランズ委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。
1950年代後半にがんに罹り、かつて200ポンド(約90.7kg)あった体重が100ポンド(約45.3kg)未満にまで落ちてしまった[2]。1959年5月26日、フロリダ州ポンパノビーチにて死去。78歳没。
息子のエド・ウォルシュ・ジュニアもMLBでプレーしたが、成功を収める事が出来なかった。関節リウマチに起因する心臓病に長い間苦しみ、1937年10月31日に32歳で亡くなった[1]。
投手としての球種はスピットボール、スローボール(今で言うチェンジアップ。たまに投げた)、カーブ(すごくたまに投げた)。『guide to pitchers』(米書)より
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 赤太字はMLB歴代最高
タイトル
記録
- 通算防御率:1.82 ※MLB歴代1位
- シーズン補殺数(投手):227 (歴代1位)
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脚注
関連項目
出典・外部リンク
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