トップQs
タイムライン
チャット
視点

デリック・メイ (野球)

アメリカ合衆国の野球選手 ウィキペディアから

Remove ads

デリック・ブラント・メイDerrick Brant May , 1968年7月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。右投左打。

概要 基本情報, 国籍 ...

2001年から2003年まで千葉ロッテマリーンズに所属した。

父のデーブ・メイ英語版もメジャーリーグの外野手であり、ミルウォーキー・ブルワーズ時代にオールスター出場、その後ハンク・アーロンのトレード相手としてマイナー選手1人とともにアトランタ・ブレーブスに移籍するなど12年間にわたってプレーしていた。

Remove ads

経歴

1986年MLBドラフト1巡目(全体9位)でシカゴ・カブスから指名され契約。

1990年メジャー初昇格。メジャーでは実働10年で6球団を渡り歩く。

1999年の途中からはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルモンテレイ・サルタンズでプレーするが[1]2000年オフに千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けて合格し、入団。来日1年目の2001年に31本塁打を放ち、主砲としての役割を果たし、福浦和也フランク・ボーリックらと強力クリーンナップを形成した。2002年は本塁打が23本と30本塁打には届かなかったが、勝負強い打撃でチームトップの90打点をマークした。同年4月1日のダイエー戦で2回見逃し三振に倒れた際、球審の小寺昌治に判定を不服として小寺に足で砂をかけ侮辱したとして退場処分となった。2003年は不調に陥ってしまい二軍落ちし、そのまま復調の気配が見られなかったことや、この年入団したリック・ショートホセ・フェルナンデスが好調で外国人枠が無かったこと、更に年齢的にもベテランといえることが重なり来期構想外になる。その後戦力外通告を受け退団。当時の応援歌はDropkick Murphysの「For Boston」が原曲となっており、応援歌では「D・メイ」とコールされた。メイの退団後はマット・フランコ、のち神戸拓光に引き継がれた。

2005年2006年セントルイス・カージナルス傘下のA+級パームビーチ・カージナルス英語版の打撃コーチ、2007年から2010年は同じくカージナルス傘下のAA級スプリングフィールド・カージナルスの打撃コーチに就任するなど打撃コーチを歴任。2011年にはカージナルス傘下マイナーリーグの打撃コーディネーターに就任した。

2016年はカージナルスで打撃コーチ補佐を務める[2]も、1年限りで退任となった。

2017年はコロラドロッキーズ傘下のマイナーリーグチームのコーチだった。

2019年5月に来日し、千葉県のトイザらスベビーザらス幕張新都心店にてトークショーを行った[3]。この日の夜には、ロッテ時代のチームメイトのサブローがメイと時間を共にした様子を伝えている[4]

2021年はMLBのドラフトで指名された大学生が参加するサマーリーグのチームのコーチだった。

2022年は韓国KBOリーグSSGランダースの二軍打撃コーチだった[5]

Remove ads

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...

記録

NPB
  • 初出場・初先発出場:2001年3月24日、対西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、6番・右翼手で先発出場
  • 初安打・初本塁打・初打点:2001年3月25日、対西武ライオンズ2回戦(西武ドーム)、1回表に石井貴から右越先制2ラン
  • 初盗塁:2002年7月27日、対西武ライオンズ16回戦(西武ドーム)、9回表に二盗(投手:青木勇人、捕手:中嶋聡

背番号

  • 27(1990年 - 1994年)
  • 12(1995年 - 同年途中)
  • 16(1995年途中 - 1996年)
  • 34(1997年)
  • 14(1998年)
  • 29(1999年)
  • 00(2001年 - 2003年)
  • 48(2016年)
  • 87(2022年)
Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads