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バヤリース

清涼飲料水のブランド ウィキペディアから

バヤリース
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バヤリース (Bireley's) は、清涼飲料水ブランドである。

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「バヤリースオレンジ」は、沖縄県を除く日本本土で販売されている
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沖縄バヤリース製の「バヤリースオレンジ」(左側)と、アサヒ飲料製の「さらさら毎日おいしくトマト」(右側)の自動販売機におけるディスプレイ(2015年3月撮影)

1923年にフランク・W・バヤリーアメリカ合衆国カリフォルニア州に設立しフランク・W・バヤリー・カンパニー(Frank W. Bireley Company、後のバヤリース・インク(Bireley's Inc))が製造を開始した。その後、アメリカ合衆国の市場からは姿を消したが、日本ではアサヒ飲料およびアサヒオリオン飲料が製造を続けているほか、2019年まではタイイチタン英語版社が製造していた。

日本における販売状況

1951年に発売し、2025年現在はアサヒ飲料のロングセラー商品である[1]

当初は「バリースオレン」と表記したが、1987年から「バヤリースオレンジ」と表記している。2015年から毎年秋季に、限定復刻版「バリースオレンクラシック」を発売している。

マスコットキャラクターの「バヤ坊」は、1959年から1999年まで「バヤリース坊やオレンジ」、中断後2002年からリンゴを被る「バヤリース坊やアップル」が加わるも、やがて“オレンジ”のみになり2013年3月に中断後、2014年1月に“オレンジ”が復活した。

2016年1月にカルピス株式会社を吸収合併して果汁飲料「Welch's(ウェルチ)」がアサヒ飲料のブランドとなり併売されている。

沖縄

沖縄県は、アメリカ統治である1950年に「バヤリース・カリフォルニア・オレンジ(オキナワ)」が設立され製造を開始し沖縄県内の代理店を通じて販売された。その後同社は1960年に「アメリカンボトリング」に社名を変更している。沖縄ではより英語読みに近い「バーレース」とも呼ばれており、県産品のジュースが1本5セントであった時代に2倍にあたる10セントで販売される高級品であった。

アメリカンボトリングは1972年の沖縄の本土復帰に伴い廃業、その後元従業員らが沖縄バヤリースを設立し2014年まで製造販売を続けた。設備の老朽化や後継者不在を理由に同社が解散した2015年以降はアサヒオリオン飲料がレシピを引き継ぎ、県内限定商品として製造販売している。日本本土のバヤリースオレンジは「20%オレンジ果汁」だが、沖縄県地域は「10%オレンジ果汁」であり、色や風味は大きく異なる[2][3]。バヤリースオレンジは販売地域が厳格に区分されていて、アサヒオリオン飲料製のバヤリースオレンジが沖縄県外で販売されることはない。しかしアサヒ飲料製のバヤリースブランド商品は沖縄バヤリースの解散前後から沖縄県でもディスカウントストアなどでスポット的に流通しており、またバヤリースオレンジ以外のアサヒオリオン飲料製バヤリースブランド商品も、2010年代以降は主に沖縄フェアなどの際に本土小売店にも移出販売されている[注 1]

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歴史

要約
視点

果汁を絞った果汁飲料は存在していたが風味が低下して保存に適さなかった。19世紀後半にフランスの科学者ルイ・パスツールが「食品の微生物の活動で変質が発生されやすい」と研究結果を発表し、微生物の殺菌方法などが考案された。

バヤリースというブランドは、フランク・W・バヤリーがスタンフォード大学在学中に、仲間に絞りたてのオレンジジュースを売っていたことが起源となっている。このビジネスが大成功したため、バヤリーは大学を中退し、1923年にフランク・W・バヤリー社を設立した[5][6]。当初の製品は「バヤリース・オレンジエード」(Bireley's Orangeade)と呼ばれ、ノース・ハリウッド英語版の本社工場で製造された。その後、1937年にオークランドにボトリング工場を開設し[7]、全米各地のボトラーとフランチャイズ契約を結んだ。

1938年、バヤリース社は、果汁の風味・香りを損なわないで長期間保存できる殺菌法を開発し[8]、特許を取得した。これは、本社工場で自動的に果汁の搾汁・殺菌・濃縮を行って全米のボトラーに出荷し、ボトリング工場で還元し、砂糖で甘味を加えて販売するというものだった。炭酸が入っていないことを売り物にしていた[5]。1942年には月産約5,800万本となり[9]、バヤリーは「オレンジジュース王」と呼ばれるようになった[6]

バヤリース社は1943年にゼネラル・フーズ社に買収され、同社の一部門となったが、バヤリーはゼネラル・マネージャーとして留任した[5][10]。新しい味の飲料が導入され、ブランドの国外展開も進んだ。1950年には、タイをはじめとするいくつかの国で「バヤリース・カリファルニア・オレンジ」(Bireley's California Orange)という名前で展開された。日本では、1951年からアサヒビール(現 アサヒ飲料)が製造を開始した[11](詳細は後述)。1950年代には、フィリピンをはじめとする多くの国で人気となった[12]。タイでは、1950年代に「ダン・バヤリー」というギャングが有名になったことで、このブランドが一般的に知られるようになった。この名前は、彼の家に近くにバヤリースのボトリング工場があったことからつけられたものである。1997年には、ダン・バヤリーをモデルとした映画『ダン・バヤリーズ・アンド・ヤング・ギャングスターズ英語版』(Dang Bireley's and Young Gangsters)が公開された[13][14]

1959年、ゼネラル・フーズ社はバヤリースの事業をシカゴの乳製品原料供給会社クリムコー(Krim-Ko)社に売却した[15]。その後、数十年の間にアメリカのほとんどの市場からこのブランドは姿を消した。1990年代に入ると、当時TLCビアトリス英語版社が所有していたバヤリースの国際展開は、(1980年にアサヒビールが商標権を取得した[16]日本のほかは)タイでのみ行われるようになった[17]。TLCベアトリス社は、2000年にバヤリース・カリファルニア・オレンジ(シンガポール)社の株式をポッカ・シンガポールに売却したが、ポッカ社は2003年に赤字続きのこの事業をタイの投資家に売却した[18]。2010年、タイのグループは「サニーハーブ・インターナショナル・ビバレッジ」という名称で、日本を除く20か国のバヤリースの商標権を買い取った[19][20]。2014年に、タイの飲料メーカーであるイチタンに17億8,000万バーツ(5,500万米ドル)で売却したが、同社はこの権利と、タイにおけるバヤリースの全ての事業および施設を買い取った[21][22]。イチタン社は、低迷していたバヤリースブランドを復活させ、海外市場に再展開することを期待していたが、マーケティングに成功したのは当初だけで、その後は期待通りの成果を上げることができなかった。イチタン社のバヤリースの製造は2019年に廃止された[23]。それから3年後の2022年、イチタンはバヤリースの製造・販売を再開した[24]

日本での歴史

第二次世界大戦太平洋戦争)終結後、進駐軍とともにバヤリース飲料が日本にもたらされるが、当初は清涼飲料水営業取締規則(明治33年内務省令第30号)で市販できなかった。1949年に戦前からソーダ水「ウヰルキンソン タンサン」などを手がけたクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉が進駐軍向けに輸入を開始し、1950年ゼネラルフーヅと提携して日本国内の製造と販売権を取得した。ウヰルキンソンは原液をアメリカから輸入して兵庫県の宝塚工場[25]でバャリース・オレンヂを生産し、進駐軍向けに供給した。

1951年に朝日麦酒がゼネラル・フーズとバャリース・オレンヂの一手販売契約を締結した。製造は引き続き、兵庫県西宮市のウヰルキンソンの工場で行われ、同時にウヰルキンソンも自社製品の販売を朝日麦酒に委託した。1952年から日本人向けに沖縄を除く全国で発売しヒット商品となる。当時はチクロなど人工甘味料の使用が清涼飲料水に認められていたが、バヤリースはこれらを一切使用しなかった。ガラス瓶が高級な印象で、「大人の酒席で子供の飲み物になるようなハレの飲み物」[25]として重宝された。1953年に「3色の天然果汁飲料」として、グレープ(カリフォルニア産)、パインエード(ハワイ産)、オレンヂ(カリフォルニア産)と産出地を表記して発売[26]した。

1959年に250ミリリットル (ml) 缶を発売し、マスコット「オレンヂ坊や」が登場する[27]

国内他社は、果汁入り・無果汁の清涼飲料水を「○○ジュース」と称して販売したが、英語圏のブランドであるバヤリースは「果汁100%使用でないとジュースとは呼べない」として「バヤリース・ジュース」と表現しなかった。1962年に「不当景品類及び不当表示防止法」が成立し、1968年に他社の100%果汁でない「ジュース」の表示が禁止された。バヤリースブランドの果汁100%ジュースは贈答用のみ存在する。

1980年に沖縄県以外の製造・販売・商標権をアサヒビールが取得し、1982年に自社生産を開始した[28]。 「バヤリース」を手中に収めたアサヒビールは、新商品を次々と打ち出した[28]1987年に商品名を「バャリースオレンヂ」から「バヤリースオレンジ」に変更する[28]。容器の多様化が進んだのもこのころであり、とりわけ300mlのPS(Plasti-Shield)瓶はコンビニエンスストアで採用されたことでブランド復活のきっかけとなったほか、「バャリース オレンヂ」は初の1.5Lペットボトル採用製品ということで市場で勢いを増した[28]。また、これと前後してチルド事業にも進出し、アサヒグループホールディングスがチルド事業から撤退する2017年まで様々な商品が展開されたた[29]

1992年に、前年までの甘さが強く濃いオレンジの色合いから、柑橘性の強い黄色がかった色へと変更された。一方、沖縄バヤリースは変更せずに1950年代から現在まで同じ色と味の製品を提供している。

1996年アサヒ飲料が販売元となる。このころは果汁飲料の市場が停滞していてバヤリースも苦戦しており、ブランド誕生45周年を目前に、アサヒ飲料は販売戦略の見直しを決めた[30]。彼らは、当時果汁飲料の半数を占めていたオレンジジュースの引用実態調査を通じて、年代によって好みの濃度が異なることを突き止め、ラインナップの強化の一環として、3種類の濃度の「バヤリース オレンジ」を1996年に打ち出した[30]。また、マスコット「オレンヂ坊や」を「バヤリース坊や」に変更した。

1997年に1732万ケースを販売するが、キリンビバレッジの「きりり」、日本コカコーラの「Qoo」、サントリーフーズの「なっちゃん」などのライバル製品の出現や、緑茶ブームに押され、2003年の時点での売り上げは710万ケースに落ち込んだ。特に本製品は低年齢層をメインターゲットに据えていたため、少子化の打撃も大きかった[31]1999年から2002年にパッケージを試行錯誤し、ペットボトルで青色パレット形にBireley'sと記されたロゴマークの青色を黄色にした例[25]もみられた。また、価値創造の面においても試行錯誤が重ねられており、うち2002年には低年齢層に向け栄養強化をうたった「バヤリース ちびバヤオレンジ」と「バヤリース ちびバヤ アップル」が発売されたほか、2004年には「早旬果実」シリーズが世に送り出され、後者はのちに「新食感果汁感じる」シリーズへと発展した[31]。高価格帯商品においては2000年に贈答品として果汁100%ジュースをまとめた「バヤリース プレミアムセット」が発売されたほか、果汁100%の「バヤリース まる搾りオレンジ 100」(2004年)も打ち出された[31]。その後、100%果汁飲料市場の伸長を受け、2006年に「バヤリース ホテルブレックファースト」シリーズが生み出され、以降も「まる搾り」シリーズや「「バヤリース 和歌山みかん100」といった高価格帯商品が次々と世に送り出されていった[32]

2005年に「Mama's happy choice」を掲げて安全と信頼をうたい、パレットマークを強調する方針を定めた[33]。その後、着色料の使用や、一時期使用していた合成甘味料を再び廃止するなど順次刷新し、2007年の販売数は約1400万ケースを記録した[31]

2009年1月に「バヤリースオレンジ」を改良し、オレンジ果汁・みかん果汁混合の「20%混合果汁入り飲料」からバレンシアオレンジ果汁のみ使用の「20%オレンジ果汁飲料」となった。いっぽう、「ホテルブレックファースト」シリーズのファミリーサイズは、常温で販売されやすい商品の性質や価格などから消費者に敬遠されていた[32]。最終的にコンセプトが見直され、「朝手軽に飲める本格的な100%果汁飲料」として2009年9月にリニューアルを果たして以来、ロングセラー商品となった[32]。他方、2008年に発売した「バヤリース 感じるすりおろしりんご 缶280g」が評判だったことから、同社は果肉入り飲料にニーズがあると考え、翌年には「「バヤリース 果肉が入ったさらさらピーチ」を発売した[34]

2011年に、オリジナルのガラス瓶をモチーフにしたペットボトルを採用しパッケージを一新した[25]。2012年ごろにはすでに「バヤリース パーラーズレシピ」というシリーズとして大人向け製品が売り出されていたが、翌2013年にはターゲット層をファミリーと大人に分けた戦略が取られ、ほろ苦さを売りとした「オレンジ ファインビター」や、当時市場が拡大しつつあったノンアルコール飲料のユーザーをターゲットとした「大人の林檎」などが世に送り出された[35]。また、2015年には過去の味を再現した「オレンヂクラシック」が発売された[36]。他方、健康志向の定着を受け、バヤリースは「さらさら毎日おいしくトマト」や「元気なりんご」のようにそれに応えた製品を展開していき、ブランドの発展につなげた[35]

その後、無糖・低糖飲料に人気が集まり、バヤリースをはじめとする低果汁飲料は不利に立たされていた[37]。2017年のリニューアルに際し、バヤリースは果実感を強調する戦略をとったほか、4月には「バヤリース リフレッシャーズ」シリーズの第一弾として、ビタミンCとビタミンEを配合した「オレンジピール仕立てのアセロラ」を打ち出した[37]。以降も、このシリーズでは「塩仕立てのピンクグレープフルーツ」や「 しょうが仕立てのレモネード」など、季節に合わせた栄養を付与した商品を展開した[37]。2018年には親子3世代に最も親しまれている低果汁飲料ブランドとしての方針が打ち出された[37]。ブランドの歴史や品質を明確にするため、、商品のラインナップをオレンジ中心に絞り込んだほか、パッケージデザインルールの統一も図られた[37]。また、2018年かあら2020年にかけては期間限定品として「バャリース オレンヂクラシック」が展開された[37]

一方、沖縄バヤリースは、2014年12月30日に営業権をアサヒ飲料へ譲渡して解散した。沖縄県内向けの製造販売はアサヒ飲料子会社のアサヒオリオンカルピス飲料(現・アサヒオリオン飲料[注 2])が引き継いだ[38]。また、引継ぎ後に発売された「石垣島パイン」はのちにふるさと納税の返礼品の一つとなった[39]

2023年10月、オレンジの産地で起きた病害ならびに天候不順により果汁が手に入りにくくなったため、「バヤリースオレンジ」の一部製品が販売休止に追い込まれた[40][41]。また、これと前後して、(販売休止対象外であるはずの)リターナブル瓶200mlが終売したという誤情報が拡散される事態も起きていた[42]

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商品ラインナップ

要約
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現行製品

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製造終了製品

期間限定製品も含む。

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広報

朝日麦酒(のちのアサヒビール)が早い段階からテレビやラジオを積極的に活用していたこともあり、『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』といった同社がスポンサーを務めた番組にバヤリースが出てくることもあった[139]ほか、テレビドラマ『ララミー牧場』では、番組のキャラクターを採用したCMが放送された[27]。また、1959年にマスコットキャラクター・オレンジ坊やが登場したときは、これに関連したCMも展開された[27]

キャンペーンも早い段階で行っており、たとえば1952年には映画『風と共に去りぬ』のタイアップとして王冠を持参すると鑑賞料が割引となるキャンペーンが展開された[27]

1980年に沖縄県以外の製造・販売・商標権をアサヒビールが取得した後は、日本国外のタレントによるカリフォルニアをイメージしたテレビCMが展開されたほか、ドラえもんといった人気キャラクターによる販促活動[注 5]も行われた[28]

1996年のリニューアルに際しては、「オレンヂ坊や」から、より立体的なデザインの「バヤリース坊や」(バヤ坊)に切り替わった[30]。一度はうまくいったものの、再び売り上げが落ちたため、その後鈴木あみ今井絵理子といった中高生に人気のタレントの起用や、試飲会の開催などで巻き返しを図った[30]

2006年には子どもや主婦層向けのCMとして、伊藤淳史が「おおブレネリ」のメロディに合わせて歌って踊るCMが放送された[31]。2011年に放送されたテレビCMM「60周年の新提案」編では、世代を超えて愛されるこだわりを表現するため、仲代達矢戸田恵梨香が起用され[32]ており、のちに戸田は2012年に放送されたテレビ CM「バヤリースずっとみんな」編にも登場している[35]

21世紀においても漫画やゲームとのコラボレーションが行われた例もあり、たとえば2012年にはセブンイレブンでバヤリースの製品を購入すると、ゲーム『モンスターハンター』に登場するアイルー、メラルー、プーギーをあしらったグッズがもらえるキャンペーンが展開されていた[141]

広報(沖縄バヤリース)

沖縄バヤリースにおいては県内のミュージシャンが起用されることもあり、たとえば2016年に放送された「バヤガール篇」ではORANGE RANGEの楽曲「センチメンタル」が採用された[142]

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脚注

関連項目

外部リンク

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