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仲代達矢

日本の俳優・演出家・歌手・ナレーター・声優(1932 - ) ウィキペディアから

仲代達矢
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仲代 達矢(なかだい たつや[7]Tatsuya Nakadai男性1932年昭和7年〉12月13日[7] - )は、日本俳優演出家歌手ナレーター声優劇団俳優座出身。無名塾主宰。愛称︰モヤ[8][9][注釈 1]仕事所属。本名︰仲代 元久(なかだい もとひさ、Motohisa Nakadai)[8]

概要 なかだい たつや 仲代 達矢, 本名 ...

東京都目黒区出身。身長178cm[2]体重75kg血液型B型星座いて座[10]

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概要

劇団俳優座出身で演劇映画テレビドラマで活動を続け、映画全盛期から斜陽時代以降までの映画界を支えてきた代表的俳優である[11][12]

出演映画が米国アカデミー賞世界三大映画祭カンヌヴェネツィアベルリン)の全てで受賞しており、森雅之山形勲と並び四冠を達成している。

来歴

要約
視点

生い立ち

東京府東京市目黒区(現:東京都目黒区)生まれ。4兄弟長男[11]父親茨城県稲敷郡長竿村(現:河内町長竿)の豪農の長男で、茨城県立江戸崎農学校を卒業しており、千葉交通(現:京成バス)のバス運転手をしていた[13]。東京に移ってからは外車を購入し、ハイヤー業を営んでいた。

父の転勤により千葉県習志野市津田沼に移るが、その後は、東京都世田谷区瀬田に移り[13]用賀の小学校に転校。

8歳のときに父親を結核で亡くし、やがて母親赤坂区(現:東京都港区青山界隈の弁護士事務所に住み込みで働くようになり、青山南町青南小学校に転校する[11]。戦時中は母を青山に残したまま調布市仙川の大慈山永久院昌翁寺[14]疎開した。よくその際の不満を述べている。その後、その隣町の世田谷区千歳烏山に移った。

1945年昭和20年)、東京都立北豊島工業学校に入学するが空襲が激しいため、ここを中退し、東京都立重機工業学校を卒業、敗戦を迎える。学制改革ののち、競馬場の切符売り、パチンコ屋などのアルバイトをしながら東京都立千歳高等学校定時制を卒業した[12]

俳優の道へ

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1955年9月16日から28日にかけて俳優座劇場で上演された『幽霊』で仲代はオスワル役に抜擢された。左から秋好光果、東山千栄子、仲代。

高校卒業後、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け[11]1952年昭和27年)、俳優座養成所を受験して合格、養成所の第4期生として入所[15]。この時の受験料は、競馬場アルバイトをしていた時に出会い、仲代に俳優となることを薦めた人物が出したという[16]。同期生には宇津井健佐藤慶[17]佐藤允中谷一郎[11]。なお、このうち佐藤允・仲代・中谷[注釈 2]の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連となった「喜八一家(ファミリー)[注釈 3]。同期生の中では、新東宝に入社した宇津井とは仕事上接点がなくなってしまった[注釈 4]が、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く[18]、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。仲代はバーで働きながら役者修業に励んだが、困窮する生活は変わらなかった[12]

養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役を務めて映画デビュー[11]。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演[注釈 5]、この作品で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明から「歩き方が変だ」と罵られ[20]、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい[20]、最終的に「いいや。OK」となった[20]

1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、準劇団員扱いで俳優座に入団した[11]。同年9月の公演『幽霊』で、オスワル役に抜擢された[11]。この『幽霊』を見た月丘夢路が映画監督の井上梅次に進言[21]。井上から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年日活)で月丘の相手役という大役を務め、映画でも本格デビューを果たし注目された[11]谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され[11]千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・人斬りジョーの演技でも存在感を示す[11]

1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家・脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚[11]1958年市川崑の『炎上』に出演[11]

主演俳優に

映画会社大手5社から、専属俳優にと望まれたが、舞台へのこだわりなどから、結局どの会社とも専属契約を締結せずフリーランスの道を歩み続けた[22]。この背景もあって、五社協定に縛られることなく映画出演の機会に恵まれた[22]1959年昭和34年)から1961年(昭和36年)まで六部で総上映時間が約10時間の『人間の條件』で主人公・役に起用される。撮影が1年半に及んだこの作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せると、小林からは「まさに天才。」とまで言われ[11]、その後も、『切腹』(第36回キネマ旬報賞男優賞、第13回ブルーリボン賞男優主演賞)などの小林作品の主演で起用され[11]、小林が監督を務めた、13作品に出演した。

東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として[11]、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶もあって「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞した[注釈 6][23]。『悪い奴ほどよく眠る』でも黒澤は仲代にオファーを出していたが、スケジュールが合わないとの理由でオファーを断ったものの[11]、黒澤本人に呼び出されて説得されたため出演することにし、残忍なヤクザを演じ、翌年の『椿三十郎』、1963年の『天国と地獄』でも起用された[注釈 7]

他映画では『』(1959年)、『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)などに出演した。1968年(昭和43年)にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演、アジア系ではなくメキシコ・インディアンの血を引くという設定のアメリカ人の悪役であった。1960年代には斜陽期となった映画界を支える新進の代表格とみなされるようになり[12]、先述通り舞台俳優としても引き続き活躍、俳優座の看板俳優として演劇界にも地位を確立する。

1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督の政財界もの映画『華麗なる一族』(1974年)で準主役を一人二役で、同じ原作・監督による『不毛地帯』(1976年)では主役を務めた。『白い巨塔』(1966年)の製作時にも山崎からオファーを受けていたが、舞台への出演と重なり、出演出来なかった[25]。映画俳優としてはフリーを通しながらも東宝への出演が多く、会社別を基本として編纂されたグラビア叢書セット「戦後日本映画黄金時代」(日本ブックライブラリー1978)では「東宝の主役」の巻に収録されている。

1980年(昭和55年)の『影武者』で、監督・黒澤明との確執で降板した勝新太郎の代役として、急遽主役に抜擢され[26]、同作はカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。同年には『二百三高地』にも主演、乃木希典を演じた[27]

テレビドラマにおいては、1972年NHK大河ドラマ新・平家物語』で平清盛を演じ、清盛が出家する後半では実際に剃髪している[注釈 8]。その後の大河ドラマの出演は、1996年の『秀吉』で千利休を、2007年の『風林火山』では武田信虎というドラマ前半の重要な役を演じた。現代劇では、中国残留孤児となった子を探し続ける父親を演じた『大地の子』に出演するなど、幅広い役柄を演じている。

近年の活躍

2010年平成22年)、久々の主演映画『春との旅』が公開され[28]日本映画批評家大賞 ダイヤモンド大賞 荻昌弘賞、イタリアのAsian Film Festival Reggio Emilia 最優秀主演男優賞を受賞した。また黒澤明誕生100年にあたり、同年の『文藝春秋』7月号[29]で、香川京子と対談した。

2015年(平成27年)、文化勲章を受章[30]。同年には2本の映画に主演した。2017年には主演作『海辺のリア』が公開された[31][32]

2020年令和2年)、86歳にして主演映画『帰郷』が公開された[33]。インタビューにおいて「もしかしたらこの映画が(自分の)最後の作品になるかもしれない」との発言を残している[34]

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ギャラリー

無名塾の創立

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無名塾 仲代劇堂(東京都世田谷区岡本一丁目)

俳優座の看板俳優だった1975年昭和50年)に、妻・宮崎恭子と共に無名塾を創立して後進の養成を開始した。1979年(昭和54年)には、俳優として縛られず活動したいとの理由で[11]、俳優座を退団[11]。以後は無名塾公演で、脚本・演出を妻に任せ、自分が出演する形で演劇を継続してきた。俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演した。

所属俳優・出身俳優には、映画・テレビドラマ・舞台で活躍している役所広司益岡徹若村麻由美赤間麻里子真木よう子内浦純一滝藤賢一村上新悟松崎謙二高川裕也、声楽家でありミュージカルなどを中心に活動している佐賀龍彦、演出家として活躍している石栗昌彦がいる。

役所広司(本名:橋本 広司)という芸名は、役所の前職が役所勤めだったことに加え、役どころが広くなることを祈念して仲代が命名した[35]。役所のイントネーションについて、名付け親である仲代はの方を強めに発音していたが、役所本人としてはどちらでもよいと思っていると語った[36]。また、神崎愛の「愛」という名前は芸名であり、名付け親は仲代である。神崎の「神」という字に合う名前は「愛」しかないというのが理由だという[37]

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家族

妻・宮崎恭子とは1955年(昭和30年)に舞台『森は生きている』の共演が縁で1957年(昭和32年)に結婚。宮崎が1962年(昭和37年)に死産してから夫婦に子がなかったため、宮崎の妹・宮崎総子(アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった[38]1996年(平成8年)、宮崎をで失う[39]

脚本家で演出家だった宮崎没後、無名塾公演は演出家を招くか、時には仲代自身が演出を兼ねる形で続いている。弟はシャンソン歌手の仲代圭吾[40]

人物・エピソード

  • バラエティー番組へはほとんど出演しないが、徹子の部屋などトーク番組や情報番組でのインタビューなどには出演歴がある。
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受賞・受章

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役職

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能登演劇堂石川県七尾市中島町中島上部9番地)

出演作品

要約
視点

太字主演

演劇

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映画

1950年代

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1960年代

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1970年代

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1980・1990年代

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2000年以降

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テレビドラマ

ラジオ

ドキュメンタリー

CM

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揮毫

音楽

シングル

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アルバム

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著書

エッセイ

その他

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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