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パオロ・バリッラ
イタリアのレーシングドライバー、実業家 (1961-) ウィキペディアから
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パオロ・バリッラ(Paolo Barilla、1961年4月20日 - )は、イタリア生まれの元レーシングドライバー、実業家。2008年現在、バリッラ・ホールディングの副社長を始め、イタリアの食品会社バリッラグループ各社の役員を務める[1]。
プロフィール
要約
視点
初期の経歴
1975年にレーシングカートでレースデビュー。1976年にイタリア・カート選手権の100ccチャンピオンを獲得。1980年に入門フォーミュラのフォーミュラ・フィアット・アバルトにステップアップ。1981年にイタリアF3選手権にステップアップし2勝を挙げ、ポールポジション1回など結果を残し、年間ランキング3位となる。
1982年、後にF1でも所属するミナルディからフォーミュラ2にステップアップ。同時期にスポーツカーレースに参戦するランチア・ワークスから声がかかり、1983年から1988年まで世界耐久選手権(WEC)にも並行して参戦した。1985年のル・マン24時間レースではヨースト・レーシングの一員としてポルシェ・956で総合優勝を果たす。
グループCカーでは1987年から3年間、トヨタワークスのドライバーとして契約し全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に小河等、ステファン・ヨハンソン、ジョニー・ダンフリーズらと組んで参戦した。
日本ではグループCだけでなくフォーミュラのシートも獲得し、1989年に中嶋企画と契約。全日本F3000選手権にフル参戦し、西日本サーキットで2位を記録するなどランキング11位となった。このほかツーリングカーの国際規格レース「富士インターTEC」など日本のレースへの参戦歴が多くある[2]。同年は無限からの依頼で、当時まだ参戦表明がされていなかったF1用V8エンジンの初期開発テストドライバーも担当[3]、同時にこれもまだ正式な参戦表明前であったブリヂストンのF1用タイヤの先行開発も担当した[4]。
F1
1989年第15戦日本GPにて、前戦で肋骨を痛め1レース欠場が決まったミナルディのピエルルイジ・マルティニの代役として、全日本F3000に参戦していたバリッラに声がかかりF1へのデビューが決まった。同年はこの1戦のみの参戦だったが、契約満了となったルイス・ペレス=サラの後任として翌1990年のレギュラードライバー契約をミナルディと結ぶことになった[5]。
1990年開幕戦アメリカGPでは体調不良を理由にリタイヤを喫する。結局第14戦までエントリーしたが予選通過が8戦のみと予選落ちが多く、1年前にデビューした地である鈴鹿でのグランプリ直前にチームは同じマシンに乗るマルティニとの予選タイム差も大きかったバリッラを降ろし、フェラーリとテストドライバー契約中の有望株ジャンニ・モルビデリと交代させることを決定。以後バリッラがF1に乗る機会は無かった。最高成績はサンマリノGPでの11位であった[6]。
バリッラ社の御曹司でありながら直接的な支援を受けず、スポンサーはあくまでも自前で用意していた[7]。
F1後
現在はバリッラの副社長業の傍らレース活動も散発的に継続し、2004年のパリ・ダカールラリーにメルセデスのトラックを駆って出場している。
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レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
ル・マン24時間レース
セブリング12時間レース
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
全日本F3000選手権
フォーミュラ1
全日本ツーリングカー選手権
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脚注
関連項目
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