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マウロ・バルディ
イタリアのレーシングドライバー (1954-) ウィキペディアから
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マウロ・ジュゼッペ・バルディ(Mauro Giuseppe Baldi、1954年1月31日 - )は、イタリア人の元レーシングドライバー。1982年から1985年までF1世界選手権に参戦した。
プロフィール
要約
視点
初期の経歴
バルディはイタリア北東部に位置するエミリア=ロマーニャ州レッジョ・エミリアに生まれた。 1972年にモータースポーツのキャリアをラリーで開始。1975年にサーキットのレースに転向すると、イタリアのルノー・5カップに参戦した。
1980年までにバルディはF3のトップドライバーと認知され、1980年のモナコF3グランプリで優勝。1981年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権にフル参戦し、アラン・フェルテやフィリップ・ストレイフ、エマニュエル・ピッロなどを抑えて年間8勝を挙げる活躍でシリーズチャンピオンを獲得する。
F1
1982年、アロウズと契約してF1デビューを果たした。ザントフォールトで開催された同年のオランダグランプリで6位に入賞し、初ポイントを挙げた。第11戦フランスGPでは決勝レース序盤の11周目、ミストラル・ストレート後の右高速コーナー・シーニュの進入でヨッヘン・マスを抜こうとした際に接触し2台ともクラッシュ。特にマスのマシンは横転、高速のまま観客席に突き刺さる大きな事故となりバルディもマスの救出に向かうほどだったが、幸運にも両者とも軽傷で救出された。ただしマスはこれを機にF1引退を決断した[1]。
1983年にバルディはアルファロメオへ移籍。モナコGPで6位、オランダGPで5位とポイントを獲得するが、チームメイトのアンドレア・デ・チェザリスが2位を2度記録するなどランキング8位の活躍を見せた影に隠れ、1年で契約終了となった。シーズン終了後には翌年に向けブラバムのテストに参加[2]。同年のチャンピオンマシンであるブラバム・BT52をドライブしたが、シート獲得には至らなかった。
1984年、ホンダ・ターボエンジンを失って小規模の低予算チームとなったスピリット・ハートに移籍[3]。1985年も同チームと契約を結んだが、第3戦サンマリノGPへの出走を最後にチームの資金が底をつき撤退となり、バルディのF1参戦もこのGPが最後となった。
F1以後
F1を離れたバルディは、スポーツカーレースで成功した。1984年と1985年にはランチアのワークスチーム、マルティニ-ランチアをドライブした。1986年にはリチャード・ロイド・レーシングに移籍し、その一員としてポルシェ・956をドライブした。
1988年にはザウバー・メルセデスに移籍し、再度ワークスドライバーとなった。1990年には、ジャン=ルイ・シュレッサーとのコンビで世界スポーツプロトタイプカー選手権のドライバーズタイトルを獲得。1991年と1992年には、プジョー・905のドライバーとなった。
一時的にF1にもかかわり、1990年夏に車両が完成したモデナ・ランボプロジェクトではモデナ・291初期のほとんどのテストドライブを担当した[4]。
1994年には「公道車」のダウアー・962LMで、ヤニック・ダルマス、ハーレイ・ヘイウッドと組んでル・マン24時間レースを制覇。また、1998年にはアリー・ルイエンダイク、ディディエ・テイズと組み、デイトナ24時間レースとセブリング12時間レースで勝利を収め、2002年にはデイトナ24時間での2勝目を挙げることに成功した。
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レース戦績
要約
視点
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
F1
(key)
世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権/スポーツカー世界選手権
インディカー・ワールドシリーズ
FIA GT選手権
(key)
ル・マン24時間レース
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脚注
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