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マグニフィセント・モーリス

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マグニフィセント・モーリスMagnificent Maurice、本名:Eugene Earl Dubuque1927年12月11日 - 1974年3月13日)は、アメリカ合衆国プロレスラー[1]ニューヨーク州ニューヨーク・シティ出身[1]

概要 マグニフィセント・モーリス, プロフィール ...

地元のニューヨークを中心とするノースイーストおよび太平洋岸を主戦場に、ショーマン派のヒールとして、"ハンサム" ジョニー・バレンドとのタッグチームなどで活躍した[3][4]

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来歴

要約
視点

アマチュアのボディビルダーとして活動後、ニューヨークのプロレス団体イースタン・スポーツ・エンタープライズで1949年にデビュー[5]。以降、ジーン・デュビュークGene DuBuque)の名義でカナダから南部まで各地を転戦してキャリアを積み、シカゴでは1951年グレート東郷レジー・リソワスキーとも対戦した[6]

1950年代中盤よりサンフランシスコ地区を主戦場に、ボブ・オートンロード・ブレアースジン・キニスキーらと共闘して、レオ・ノメリーニエンリケ・トーレス、そして後のパートナーとなるジョニー・バレンドとも抗争を展開[7]1958年11月21日にはマイク・バレンチノと組んでサンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を獲得した[8]

1959年末よりマグニフィセント・モーリスMagnificent Maurice)を名乗り、1960年オハイオ地区でバレンドとのタッグチームを結成。ミスター・クリーンこと後のグラン・ウィザードマネージャーに迎え、ステッキマントシルクハットという出で立ちのショーマン派スタイルとなり[3][4]、同年12月にオハイオ・タッグ王座を獲得[9]。以降、各地のタッグマッチ戦線を席巻した[3][9]

1962年にはWWWFの前身であるキャピトル・レスリング・コーポレーションに参戦し、バレンドとのコンビでエドワード・カーペンティアボボ・ブラジルドリー・ディクソンアントニオ・ロッカアルゼンチン・アポロらと抗争。バディ・ロジャースともトリオを結成した[10]。WWWFの発足後は、ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に度々挑戦している[11]

1964年6月、バレンドとのコンビで日本プロレスに初来日。8月17日に大阪府立体育館にて、豊登&ジャイアント馬場が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した[12]。来日中は馬場や吉村道明、金剛金太郎こと大木金太郎とのシングルマッチも行われた[13]

五大湖地区では1965年3月5日、クリス・トロス&ジョン・トロスを破ってデトロイト版のNWA世界タッグ王座を獲得したが、7月にブラジル&アート・トーマスに王座を明け渡すとコンビを解散[14]。以降はシングルプレイヤーとなって、古巣のサンフランシスコ地区やWWWFなど各地を転戦した[5]1968年、当時のバレンドの主戦場だったハワイにて一時コンビを再結成し、7月17日にピーター・メイビア&ビリー・ホワイト・ウルフからNWAハワイ・タッグ王座を奪取している[15]

キャリア終盤はロサンゼルス地区で活動し、1969年にはペッパー・ゴメスミル・マスカラス[16]1970年にはミスター・モト坂口征二とも対戦した[17]

セミリタイア後はハリウッド俳優に転身したが、1974年3月13日、映画撮影の帰路に搭乗していた飛行機の墜落事故により死去[3][9]46歳没[2]

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得意技

獲得タイトル

ミッドウエスト・レスリング・アソシエーション
アメリカン・レスリング・アライアンス
NWAサンフランシスコ
NWAデトロイト
NWAミッドパシフィック・プロモーションズ
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / ジョニー・バレンド)[15]

脚注

外部リンク

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