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ヤス・フジイ

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ヤス・フジイYasu Fujii)のリングネームで知られる藤井 康行(ふじい やすゆき、1949年4月27日 - )は、日本の元プロレスラー大阪府大阪市出身[1]

概要 ヤス・フジイ, プロフィール ...

国際プロレスに入団後、1970年に渡米してフリーランサーとなり、ヒールの日本人レスラーとしてアメリカカナダおよびヨーロッパにて活動した[4]

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来歴

要約
視点

大阪難波ボディビルジムを経て、1967年3月にジム仲間の井上末雄と共に国際プロレスに入団[2]。当時は井上や小林省三と3人で同じアパートに住んでいたという[2]1968年1月のデビュー後、当時国際プロレスに所属していた豊登の命名により、藤井東助(ふじい とうすけ)、藤井三吉(ふじい さんきち)、零戦隼人(ぜろせん はやと)などのリングネームを名乗ってキャリアを積んだ[4]

1970年2月、前年秋に国際プロレスに参戦したフリー日本人レスラーのシャチ横内に誘われて初渡米[5]。以降、ヤス・フジイYasu Fujii)またはヤス・フジYasu Fuji)をリングネームに、横内のタッグパートナーとなって北米各地を転戦。同年下期にはカナダバンクーバーにて、ドン・レオ・ジョナサンが率いるチームとNWAカナディアン・タッグ王座を争った[6]

アメリカ中西部セントラル・ステーツ地区では、1971年10月15日にルーファス・ジョーンズ&スティーブ・ボラスからNWA北米タッグ王座を奪取、1972年4月21日にザ・ストンパー&ダニー・リトルベアに敗れるまで、同王座を通算4回獲得した[7](この間、日本には戻ることなく、1972年に国際プロレスから除名されている[8])。深南部ジョージア地区では1973年2月14日、空位となっていたNWAサウスイースタン・タッグ王座をトーナメントに優勝して獲得[9]。4月にミスター・レスリング2号&ビル・ドロモに明け渡すも、戴冠中はシングルマッチでルー・テーズとも対戦した[10]。同年下期にはカルガリースタンピード・レスリングにおいて、ザ・サモアンズとインターナショナル・タッグ王座を争った[11]

横内とのタッグ解消後の1974年には、中南部のトライステート地区にてミスター・イトーこと上田馬之助と組み、グリズリー・スミス&ルーク・ブラウンのザ・ケンタッキアンズなどと対戦[12]1975年は中西部地区に戻り、3月27日に日系人ギミックのオキ・シキナ(サパタ・マルティネス)をパートナーに、マイク・ジョージ&ジェリー・オーツからセントラル・ステーツ版のNWA世界タッグ王座を奪取している[13]。同地区では、アメリカ遠征中だった全日本プロレス佐藤昭雄とも度々対戦した[14]

1976年11月より、ドクター・ヒロ・オオタDr. Hiro Ohta)と名乗ってカリフォルニア州ロサンゼルスNWAハリウッド・レスリングを主戦場に活動。プロフェッサー・トール・タナカと組み、1977年2月11日にビクター・リベラ&シエン・カラスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取[15]。シングルマッチではキース・フランクスザ・ハングマン、そしてアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦しており[16]、11月26日にはチャボ・ゲレロを破ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得、初のシングル王座戴冠を果たした[17]

1978年1月27日には、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて行われた藤波辰巳マスクド・カナディアンWWFジュニアヘビー級王座戦(同年1月23日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダを破り、同王座を獲得した藤波の初防衛戦)において、カナディアンのセコンドを務めて試合にも介入、藤波との乱闘も演じた[18]。この試合で藤波の救出に入ったチャボ・ゲレロとの抗争も継続させ、2月5日にロン・バスと組んでチャボ&ヘクター・ゲレロを破りNWAアメリカス・タッグ王座に返り咲くが、同月24日にチャボ&エル・ハルコンに奪取されている[15]

1979年11月、ヤス・フジイ名義で国際プロレスの『デビリッシュ・ファイト・シリーズ』に逆上陸し、9年ぶりに日本マットへ登場。トライステート地区でもタッグを組んだ上田馬之助のパートナーとなり、11月14日に長野県諏訪市諏訪湖スポーツセンターにて、同期のマイティ井上アニマル浜口と組んで保持していたIWA世界タッグ王座金網デスマッチで挑戦した[19]。同シリーズでは国際プロレスを裏切った男[5]として日本陣営と敵対し、モンゴリアン・ストンパーアレックス・スミルノフジプシー・ジョーらとも共闘した[20]

帰米後の1979年12月から1980年2月にかけてはカルガリーにて、カーネル・ヤン・キーCol. Yan Ky)なる北ベトナム将校キャラクターに一時的に変身。ミスター・セキをパートナーに、ブレット・ハートジム・ナイドハートと対戦した[21]

その後は再びヤス・フジイとして活動。西ドイツオーストリアなどヨーロッパにも遠征しており、1980年にはグラーツにてオットー・ワンツスティーブ・ライトレネ・ラサルテスチャールズ・フェルフルスト[22]1982年にはハノーバーにてミレ・ツルノビッグ・ジョン・クインムース・モロウスキーエイドリアン・ストリート、そしてミッキー・イノウエこと因縁のマイティ井上とも対戦した[23]

1983年は古巣の中西部地区で活動。2月25日にはセントルイスキール・オーディトリアムにて、アンドレ・ザ・ジャイアントが優勝したバトルロイヤルに出場した(他の参加選手は、ボビー・ダンカンマニー・フェルナンデススパイク・ヒューバーリック・マーテルオックス・ベーカーデューイ・ロバートソンヘラクレス・ヘルナンデスなど)[24]。3月3日にはキム・ドクと組み、ボブ・ブラウン&バズ・タイラーからNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取している[25]

その後はセミリタイアしてハワイに居住していたが、1985年1月、将軍KYワカマツ率いるマシーン軍団の一員として新日本プロレスに参戦。覆面レスラーストロング・マシーン3号Strong Machine #3)に変身し、1号&2号と組んでのタッグマッチにおいて、アントニオ猪木、藤波辰巳、坂口征二木村健吾ら新日本主力勢と抗争した[26]。キャリア最後の試合となっている8月1日の両国国技館大会では、マシーン軍団を離脱した1号のスーパー・ストロング・マシーンとシングルマッチで対戦した[27]

引退後は居住地のハワイにて観光業に携わっている[5]。なお、2012年スポーツライターのトシ倉森と上田馬之助の共著として出版された『金狼の遺言 完全版』のあとがきには、上田とダニー・ホッジセメントマッチについてのフジイの証言が掲載されている[28]

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得意技

獲得タイトル

NWAオールスター・レスリング
セントラル・ステーツ・レスリング
NWAトライステート
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / シャチ横内)[9]
スタンピード・レスリング
  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / シャチ横内)[11]
NWAハリウッド・レスリング

脚注

外部リンク

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