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上宮天満宮
大阪府高槻市天神町にある神社 ウィキペディアから
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上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)は、大阪府高槻市天神町にある神社。旧社格は郷社。一般には「うえのみやてんまんぐう」と呼ばれるほか[1]、「北山の天神さん」とも称される[2]。
「太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」と称され、「上宮」の名も、創建が京都の北野天満宮より以前であることから冠せられたといわれる[1][2]。
祭神
歴史
創建期
上宮天満宮は「天神山(てんじんやま)」(「日神山〈ひるがみやま〉」)と呼ばれる丘陵上に鎮座し、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという[3]。
その後正暦4年(993年)、勅使・菅原為理が太宰府に下向して菅原道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが上宮天満宮の始まりとする。また、道真を祀った社としては太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古いものであるとする。
もともと当地には『延喜式神名帳』に記載される「摂津国島上郡 野身神社」(現: 摂社・野身神社)があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられている[4]。それが後になって道真を祀る天満宮が創建され、野身神社がそれに吸収されたものと見られる。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にある。
『和名抄』には摂津国島上郡に「濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆される。なお上宮天満宮の境内・境外には、銅鐸も出た弥生時代の天神山遺跡が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神車塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた様子がうかがわれる。
中世以降
永禄11年(1568年)、芥川山城に籠城する三好長逸を討伐する際に織田信長が当社に本陣を構えている。天正6年(1578年)には高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放ったという。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際には、羽柴秀吉が参道である「天神馬場」に本陣を置いた[5]。その後、山崎の戦いに勝利した秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590年)に社地を寄進して社殿を修造した。
明暦2年(1656年)には高槻藩主・永井直清が拝殿と大鳥居を再建している。
1879年(明治12年)5月、「野身神社」に改称し、近代社格制度において郷社に列格した。太平洋戦争後、元の「上宮天満宮」の名に復している。
1996年(平成8年)11月、放火により天正18年(1590年)に豊臣秀吉により造営されたという本殿が焼失した[6]。しかし、2002年(平成14年)12月[1]に日本初の竹製の本殿として再建されている[5]。
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境内
- 本殿 - 2002年(平成14年)12月再建。現在の本殿の外部資材は主に竹が用いられている。これは上宮天満宮が保持するおよそ2万平方メートル(2ヘクタール、約6,000坪)、8,000本のモウソウチク(孟宗竹)林の整備と再利用の推進によるものである[6]。
- 幣殿
- 拝殿(割拝殿) - 明暦2年(1656年)に、高槻藩主永井直清による造営[2][5]。
- 神楽所・御霊屋
- 上満庫
- 社務所
- 絵馬堂
- 神具室
- 竹林・花木園「千辨万華」
- 竹製の本殿
- 割拝殿
摂社
末社
文化財
重要美術品
その他
例祭「初天神」
毎年2月25日と26日に、例祭「初天神」[9]、通称「天神まつり」がある。JR高槻駅北側から延びる参道には、特設ステージの催しや多数の屋台が出るなど、高槻市最大の祭典といえるほどの規模であり、市民の楽しみになっている。
前後の札所
参拝
- 参拝時間: 18:00まで
- 駐車場: 10:00-1600
交通アクセス
周辺
- 天神山遺跡(てんじんやまいせき)
- 昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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