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下条康長
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下条 康長(しもじょう やすなが)は、戦国時代の信濃国伊那郡の国衆。
略歴
要約
視点
下条信正は、天正10年(1582年)2月、織田信長による甲州征伐が始まると信濃吉岡城の守備を務めたが、
叔父の下条氏長が織田の武将の河尻秀隆や森長可と内通して裏切ったために落城し、
父の下条信氏や叔父の下条頼安・嫡男の牛千世丸と共に三河国設楽郡黒瀬郷[1]に落ち延びた。
武田氏滅亡後の同年3月22日、下条信正は父の下条信氏に先立って病死した。享年32。
天正11年(1583年)1月、牛千世丸は、僅か10歳で下条氏の十二代当主となったが、この年の後半になると徳川家康は菅沼定利を伊那郡の郡代として、知久氏の神之峰城の前にあった知久平城を普請して、下条氏や知久氏の弱体化を目論み、知久氏の当主を暗殺して一旦は没落させている。
天正12年(1584年)3月、父の信正の菩提を弔うために、富草村粟野に関昌寺を創建した。
天正13年(1585年)8月、家康は真田昌幸に領地の上野国沼田を後北条氏に引き渡すように命じたが、真田昌幸はこれを拒んだため第一次上田合戦が勃発した。
この上田合戦に、徳川方として参戦したことによって本領を安堵されたものの、
徳川方として陣中にあった下条氏は、家臣の佐々木新左衛門の不注意で陣小屋で火事騒ぎを起こしてしまった。当時、陣中での出火は厳しく戒められていたため、
牛千代は、このことを心配して、家臣の下条志摩・原備前の重臣をして、軍監の井伊直政に陳謝し許されて帰城することができたが、佐々木新左衛門は成敗されることを恐れて逃亡した。
天正13年(1585年)12月12日付で、家康が牛千代丸に対し、美濃恵那郡落合村と湯舟澤村[2]を苗木遠山氏の遠山久兵衛に、そして美濃国恵那郡上村[3]を明知遠山氏の遠山勘左衛門へ引き渡すよう書状を送り命じている。
天正14年(1586年)6月、牛千世丸は家康から「康」の字を与えられ、下条康長と名を改めた。
天正15年(1587年)、佐々木新左衛門が、家康に下条氏に逆心ありと訴状三ヶ条を提出した為、家康は事の重大さに驚いて、下条志摩・下条仁右衛門・波會備前・駒場久左衛門・林戸兵衛など6名を駿府城に呼び寄せ、訴状三ヶ条について糾問した。
一、森庄藏 逆心内通之事一、居城 要害 普請之事
一、朝日千助から つかわした書状 引裂すて候事
一番目と二番目については申し開きができたが、三番目については申し開きができず、下条へ逃げ帰ることになった。
朝日千助(受永)は、元は下条氏の家臣であったが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に家康・秀忠に拝謁し、豊臣政権下での関東移封により、武蔵国児玉郡内に500石を賜っていた。
慶長4年(1599年)には、代官頭の大久保長安の意を受け、伊那郡内の社寺に一斉に安堵状を発給し、
慶長6年(1601年)には伊那郡の代官及び旗本となった人物である。
天正15年(1587年)3月、伊那郡代の菅沼定利は、康長を知久平城に呼んで矢倉に押し込め、駿府城に呼び寄せた6名の重臣達を呼び寄せて殺したため、
下条氏の家臣たちは大いに怒って家臣のうち14人が、夜秘かに知久平城の南方の大竹藪に忍び込み、矢倉の間切を打ち破って康長を奪還し美濃国恵那郡落合村へ逃がした。
其の後、尾張国清洲城の松平忠吉を頼り、無実の段を家康に伝えるように頼んだが、
慶長12年(1607年)3月5日に松平忠吉が没したため、浪々の身となり、
当時古河に居た小笠原秀政を頼り家臣となった。この時に従ったのが糟谷輿五右衛門であったとされる。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣に、小笠原秀政の配下として豊臣方と戦ったが、
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参考文献
- 『阿南町誌 上巻』 第2編 歴史 第3章 中世 三 頼安死後の下条氏と亡命 p582~p583 阿南町町誌編纂委員会 編 1987年
- 『大下条村誌』 第二章 下条氏伝記 p40~p52 熊谷星外 著 大下条村史編纂委員会 1961年
脚注
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