トップQs
タイムライン
チャット
視点

中国の書家一覧

ウィキメディアの一覧記事 ウィキペディアから

中国の書家一覧
Remove ads

中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。

さらに見る 中国の歴史中国歴史 ...
Remove ads

三代

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 史籀(し ちゅう、生没年不詳)
    一説に、宣王時代の太史官で、また、秦代の人との説もある。史籀の「史」は、史官の意と姓の意と両説ある。字書『史籀篇』15篇を著したとされる[1][2]

さらに見る 時代, 通称 ...

前漢

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 史游(し ゆう、生没年不詳)
    前漢元帝の時の黄門令で、『急就章』の作がある。また、隷書を解き散じて作ったという章草の始祖といわれているがはっきりしない[6][7]

後漢

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 崔瑗(さい えん、77年 - 142年)
    後漢の書家。字は子玉。小篆・章草に長じた。蔡邕の門人。『座右銘』が有名で、日本では空海が書いた『崔子玉座右銘』が名高い[10]
  • 張芝(ちょう し、生年不詳 - 192年)
    後漢の書家。字は伯英。敦煌郡淵泉県の人。書を崔瑗杜度の2人に学び、草書をよくし、古来草聖と称された。自分のに臨んで熱心に習字をしたため、池の水がいつも真黒であったというのは有名な話であり、書道のことを「臨池」(りんち)というのはこの故事による。『書譜』の中に、王羲之でさえ張芝の草書に敬意を表したとある。代表作に章草体の『芝白帖』がある。また『淳化閣帖』に草書の『冠軍帖』・『欲帰帖』などが見える[11][12][13]
  • 師宜官(しぎ かん、生没年不詳)
    後漢の書家。南陽郡の人。隷書を得意とし、『耿球碑』(こきゅうひ)は彼の書という。霊帝は彼の八分を第一と称した[2]

三国

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 衛覬(えい き、生年不詳 - 230年)
    字は伯儒。衛瓘の父。漢末魏初に仕官した人で、古文・篆書・隷書・草書ともよくした。鍾繇と同時代の人。
  • 皇象(こう しょう、生没年不詳)
    字は休明。呉で最も書名が高く、草書・章草・篆書・隷書をよくした。もっとも優れたのは章草であると言われている。
Remove ads

六朝

西晋

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 索靖(さく せい、239年 - 303年)
    西晋の政治家。字は幼安。敦煌郡龍勒県の人。張芝の姉の孫。草書をよくし、衛瓘と並び称され、特に章草に優れた。その書法は韋誕から出た。書跡には『月儀帖』や『出師頌』(すいししょう)などがある[15][16]
  • 衛恒(えい こう、252年 - 291年)
    字は巨山。衛瓘の子。楷書に飛白の筆意を含む散隷という書を作った。張芝を学び、古文・章草・草書・隷書・楷書をよくし、書論『四体筆勢』を著した。『四体筆勢』には、古文・篆書・隷書・草書の四書体について、その起源などを記している。従妹に衛鑠がいる[17][18]

東晋

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 衛鑠(えい しゃく、272年 - 349年)
    字は茂猗(もい)。通称は衛夫人。衛恒の従妹で、汝陰郡太守李矩の妻。書を鍾繇ないし蔡琰に学び、楷書・行書・篆書・隷書の各体をよくした。王羲之の師と伝えられる[18][26]
  • 王珣(おう じゅん、349年? - 400年?)
    字は元琳。王洽の長男。書名は当時、弟の王珉の方が高く、王珣の本領は学問にあったといわれる。行草に優れ、書に『伯遠帖』がある[27]

南朝

さらに見る 時代, 通称 ...

北朝

さらに見る 時代, 通称 ...
Remove ads

さらに見る 時代, 通称 ...

初唐

さらに見る 時代, 通称 ...

盛唐・中唐・晩唐

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 徐浩(じょ こう、703年 - 782年)
    盛唐の書家。字は季海。越州会稽県の人。開元年間の宰相張九齢の甥に当たる。書は父の徐嶠(じょ きょう)より学び、各体よくしたが、特に楷書と隷書に優れた。作品には楷書の『不空和尚碑』(ふくうおしょうひ)、隷書の『嵩陽観聖徳感応頌』(すうようかんせいとくかんおうしょう)などがある[32][33]
  • 韓方明(かん ほうめい、生没年不詳)
    唐の人。伝未詳。筆法の伝授者として有名で、貞元15年(799年)に徐璹から、貞元17年(801年)には崔邈から法を授けられたという。空海の入唐中の師と伝えられるが確証はない。その著に『授筆要説』がある[34][35][36]
Remove ads

五代・十国

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 楊凝式(よう ぎょうしき、873年 - 954年)
    後周の書家。字は景度。華州華陰県の人。父の楊渉(よう しょう)は唐末に宰相となり、唐の滅亡後、後梁に仕えて宰相となった。凝式は文章に巧みで、顔真卿柳公権を学び、楷書・草書をよくした。この時代、一人書名を恣にし、時人は王羲之の再来とまで称した。また、宋になって、蘇軾黄庭堅米芾らが称賛してから特に有名になった。この三大家は、古来の書法を無視した凝式の天真な点を高く評価している。書に『韭花帖』(きゅうかじょう)・『神仙起居帖』(しんせんききょじょう)などがある[37][38][39][40][41]
Remove ads

宋・遼・金

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 周越(しゅう えつ、生没年不詳)
    北宋の書家。越は名、官名を膳部という。仁宗朝のころに書で名を知られた人で、その当時、周越に書を学ぶ人は多く、黄庭堅の年少のときの師である。その書風は王羲之風の保守的なものであったという。欧陽詢の『草書千字文』(拓本)の末尾に周越の跋がある[44][45][46]
  • 黄伯思(こう はくし、1079年 - 1118年)
    北宋の書家。字は長睿、別の字は霄賓、雲林子と号した。邵武軍邵武県の人。官は秘書郎。篆・隷・楷・行・草・飛白ともによくした。著に『東観余論』、『法帖刊誤』などがある[47][48]
  • 張即之(ちょう そくし、1186年 - 1266年)
    南宋の書家。字は温夫。樗寮と号す。官は司農寺丞。和州歴陽県の人。叔父の張孝祥も書をよくした。即之の書はほとんどが楷書で特に大字が良いとされているが、当時としてはかなり独特な書風であり、古来評価はまちまちであった。その中で董其昌は高く評価している。その書は禅僧によって日本の禅林に伝来し、本阿弥光悦等に影響を与えた。作品には楷書の『金剛般若波羅蜜経』(こんごうはんにゃはらみつきょう)、『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう)などがある[49][50][51]
Remove ads

さらに見る 時代, 通称 ...
Remove ads

さらに見る 時代, 通称 ...
Remove ads

さらに見る 時代, 通称 ...
  • 張照(ちょう しょう、1691年 - 1745年)
    字は得天。松江府華亭県の人。涇南・梧囱と号し、晩年に天瓶居士と号した。康熙48年(1709年)の進士翰林院に入り、雍正11年(1733年)には刑部尚書となった。諡は文敏。書は顔真卿と米芾を学び、劉墉王澍と並んで帖学派を代表する大家である。刻帖に『天瓶斎帖』がある[54][12][55][56]
  • 潘存(はん そん、1818年 - 1893年)
    字は仲模、または存之。金石学に通じ、書をよくした。楊守敬はその門人として有名である。中林梧竹が渡清して潘存に師事した[57][58][59]

中華民国

さらに見る 時代, 通称 ...

中華人民共和国

さらに見る 時代, 通称 ...

脚注

出典・参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads