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二荒芳徳

日本の政治家、官僚 ウィキペディアから

二荒芳徳
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二荒 芳徳(ふたら よしのり、旧字体二荒󠄁 芳德1886年明治19年)10月26日 - 1967年昭和42年)4月21日[1])は、愛媛県生まれの政治家官僚伯爵日本体育専門学校(現日本体育大学)校長。のち日本体育大学名誉教授。

概要 生年月日, 没年月日 ...
概要 二荒(ふたら) 芳徳(よしのり) 二荒󠄁 芳德, 続柄 ...
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生涯

要約
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伊予宇和島藩9代藩主伊達宗徳華族令により伯爵、のち侯爵)の九男、伊達九郎として生まれ、二荒芳之伯爵(1909年(明治42年)8月に逝去、北白川宮能久親王の庶子)の養子となり改名した。

1915年大正4年)7月16日北白川宮家の拡子女王(芳之の異母妹)との結婚の勅許が下り[2]7月20日に婚姻した[3]

1917年(大正6年)に欧州に留学後、1921年(大正10年)の皇太子裕仁親王の欧州訪問の随行員にも選ばれている[4]

1925年(大正14年)7月10日に実施された貴族院伯・子・男爵議員選挙[5]において、当選を果たす[6]

この他歴任した役職は、静岡県理事官、宮内書記官・兼同参事官・兼式部官、東宮職御用掛、学習院講師等であり、厚生省顧問、学習院評議会会員、国民体力審議会委員、外務省委員など多数[7]。 海外経験も豊富で、1931年(昭和6年)の万国議院商事会議(プラハ)、1933年(昭和8年)の第29回列国議会同盟会議(マドリード)、1937年(昭和12年)の第33回列国議会同盟会議(パリ)に派遣されている[7]

東宮職御用掛を務めていた1926年(大正15年)、北一輝一派が北海道の御料林払い下げをめぐり汚職があったとして宮内省関係者を攻撃(宮内省怪文書事件)。二荒は北と面会するなど事件のもみ消しに回ったほか、北らの捜査が行われる過程で検事の召喚を受けた[8]

戦前期においては、スカウト運動や教育に関する著作が多数ある。

1940年(昭和15年)、甥の北白川宮永久王が戦地で殉職(事故死)した際には、芳徳は『嗚呼北白川宮殿下』を作詞[9](作曲:古関裕而)してその「戦死」を讃えた[注釈 1]

1951年(昭和26年)3月3日、皇太子裕仁親王の欧州訪問30周年の記念日にあたり、当時の随行者の一人として皇居に招かれた[10]

年譜

  • 1913年(大正2年) - 東京帝国大学法科大学政治科卒業[4]
  • 1917年(大正6年) - 欧州に留学[4]
  • 1921年(大正10年) - 皇太子裕仁親王の欧州訪問3月3日9月3日)に随行[4]
  • 1922年(大正11年) - 少年団(ボーイスカウト)日本連盟の初代理事長に就任(総長は後藤新平、副理事長は三島通陽
  • 1925年(大正14年) - 貴族院伯爵議員に当選[6](1947年(昭和22年)5月2日まで在任[1]
  • 1931年(昭和6年) -  世界スカウト機構の委員会メンバーに就任(~1938年)
  • 1937年(昭和12年) - ボーイスカウト世界大会出席のため渡蘭し、帰途ドイツ視察[11]
  • 1938年(昭和13年) - 体操学校校長就任。
  • 1941年(昭和16年) - 大日本少年団連盟の副団長に就任。
  • 1946年(昭和21年) - 日本体育専門学校(旧体操学校)退職。
  • 1949年(昭和24年) - ボーイスカウト日本連盟顧問、総コミッショナーに就任。
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人物像

貴族院伯爵議員に当選した1925年(大正14年)当時、「聡明にしてノーブル」かつ「温和な容貌」に加え、スポーツで鍛えられた肉体と洗練された弁舌ぶりによる覇気と才知を有すると評された[12]

血縁

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二荒芳徳と家族(昭和初期)

栄典

著作

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二荒芳徳(左)とシーラッハ(その右、1937年)
作詞
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脚注

参考文献

関連項目

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