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伊達宗徳
日本の江戸時代の大名 ウィキペディアから
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伊達 宗徳(だて むねのり)は、江戸時代後期の大名、明治時代の華族。最終的な位階爵位は正二位侯爵。
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伊予国宇和島藩第9代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。明治以降華族に列し、華族令施行により伯爵となり、明治24年(1891年)4月23日に、養父・伊達宗城の勲功により侯爵に陞爵する。
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生涯
第7代藩主・伊達宗紀の三男として生まれる。
天保8年(1837年)、従兄にあたる第8代藩主・宗城の養嗣子となり、安政5年(1858年)11月23日に宗城が井伊直弼の安政の大獄で隠居処分となったため、家督を相続した。藩主就任後も実権は宗城に掌握されていたが、それでも宗城の改革路線を引き継いで専売制の強化、西洋式軍制の導入、教育などの普及など様々な改革で成果を挙げている。しかし、やはり宗城の存在は大きく、宗徳はお飾りの立場に近かった。
1891年(明治24年)4月23日に侯爵に陞爵し[2]、貴族院侯爵議員となる[1][3]。
明治38年(1905年)11月29日、76歳で死去した。法号は霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士。墓所は愛媛県宇和島市野川の大隆寺。
栄典
系譜
- 父:伊達宗紀(1792年? - 1889年) - 第7代藩主
- 母:吉見氏
- 兄弟姉妹
- 養父:伊達宗城(1818年 - 1892年) - 第8代藩主
- 正室:孝子 - 毛利斉元次女
- 継室:佳子 - 佐竹義厚長女
- 生母不明の子女
- 長男:伊達宗陳(1861年 - 1923年)
- 次女:能久親王妃富子(1862年 - 1936年) - 島津久光養女、北白川宮能久親王妃
- 次男:本多康虎 - 子爵本多康穣養嗣子
- 三男:伊達紀隆(ただたか) - 分家、陸軍歩兵中佐。妻の智は子爵北条氏恭の娘。子に11代宗彰。その岳父に子爵松平慶民。子の徳真(宗彰の兄)の岳父に伯爵吉井幸蔵
- 四男:伊達武四郎 ‐ 衆議院議員
- 五男:土居剛吉郎(1870年 - 1949年) - 土居通夫養子。岳父に五代友厚
- 六男:丹羽長徳(1873年 - 1947年) - 子爵丹羽長国養嗣子
- 七男:一柳直徳(なおえ) - 一柳頼明の弟・一柳紹念養子
- 八男:伊達重正
- 九男:二荒芳徳(1886年 - 1967年) - 伯爵二荒芳之養嗣子
- 十男:十郎 - 伊達武四郎養子
井上三郎 ┃ ┣━━━井上光貞 ┃ ┃ 井上馨━━千代子 ┃ ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ 石坂泰三 ┏石坂一義 ┃ ┃ ┣━╋石坂泰介 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣石坂泰夫 ┃ ┣石坂泰彦 ┃ ┣石坂信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ 霜山精一━━霜山徳爾
脚注
参考文献
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