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佐藤武夫 (野球)

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佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 1962年4月18日[1])は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手プロ野球審判員

概要 基本情報, 出身地 ...
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来歴・人物

旧制岡崎中学校では、投手高塚誠治とバッテリーを組む一方、4番打者も務める。1935年夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。1936年に卒業[2]し、大阪タイガースに入団[1]

同年12月に後楽園イーグルスが新たに設立されると移籍[1]し、1937年春季からレギュラー捕手となり36試合にマスクを被る。しかし、6月下旬にバッキー・ハリスが入団すると出番が大きく減少。秋季は9試合の出場に終わる。

1938年には東京セネタースに移籍[1]1939年から北浦三男に代わって正捕手となると、長打力があり、1940年には3本塁打で6位タイ、1942年にも4本塁打を放ち4位タイであった。長打力の代わりに大振りで1939年は56三振、1941年は52三振でリーグ最多三振を記録、さらに1941年は265打数36安打で打率.136と個人打撃成績最下位のリーグ57位であった。その長打力と大振りで人気があり、1939年と1940年には東西対抗野球に出場。1942年まで正捕手を務めるが、1943年になると中村民雄に譲って控えに回る。同年オフに西鉄軍が解散すると、黒沢俊夫近藤貞雄らとともに東京巨人軍に移籍し、1944年の1年間のみ在籍した[1]

引退後は社会人野球の愛知産業を経てプロ野球審判員としてプロ野球界復帰したが、1962年4月18日に現役のまま死去[1]45歳没

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逸話

1936年の阪神は背番号を"いろは"順に定めた。これに当てはめると、佐藤の背番号は13になるのだが、13は縁起が悪いと変更することになった。空き番号で最も若かった18は、同じく縁起が悪いと言うことで4から変更した若林忠志が付けたので、次に若い19に変更することにした。その後、阪神の背番号131950年にトレード入団した徳網茂が付けるまで誰も付けることは無かった。

1942年5月24日に後楽園球場で行われた対名古屋軍戦はプロ野球最長となる延長28回の試合となったが佐藤は8番捕手で出場し、野口二郎とのバッテリーでフル出場した[1]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • セネタース(東京セネタース)は、1940年途中に翼(翼軍)に球団名を変更
  • 大洋(大洋軍)は、1943年に西鉄(西鉄軍)に球団名を変更

背番号

  • 19 (1936年)
  • 14 (1937年)
  • 12 (1938年 - 1940年)
  • 9 (1941年 - 1943年)

脚注

関連項目

外部リンク

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