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信楽町多羅尾
日本の滋賀県甲賀市の町丁 ウィキペディアから
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信楽町多羅尾(しがらきちょうたらお)は、滋賀県甲賀市の町丁。本項では前身である甲賀郡多羅尾村(たらおむら)についても記す。
地理
甲賀市の南西端の山間部に位置し、北で信楽町小川、北・東で信楽町神山、東で三重県伊賀市諏訪、南で同市西高倉・西山・島ヶ原、西で京都府相楽郡南山城村北大河原・野殿・童仙房および同和束町湯船に接する。北西から南東に滋賀県道・三重県道138号信楽上野線、北東から南西に滋賀県道334号多羅尾神山線が通過する。江戸時代には多羅尾代官所が所在した。家来の家も立ち並び、江戸や地方から訪れる人で賑わいを見せたという[5]。
山間に位置する特性から旧信楽町の他の地域と比べても寒冷で、この気候を生かして水稲、シイタケ、トマト、三度豆が栽培されている[5]。
河川
- 神有川
- 滝川
- 流谷川
歴史
地名の由来として、つぎのような伝説がある。
もともとこの地には、たらが自然に大量に生えていて、たらほとか、たら野などと呼ばれていたが、平安時代のはじめ(814年ごろ)空海が真言宗の本山、金剛峰寺をどこに建てようかと近畿地方を歩き回っていたとき、ここにも来て、村主にこう示唆した。
「印度の国では、多羅という大きな木が、たくさん植えられていて、むかし、まだ、紙がなかった時代は、この木の葉を干して、乾かし、これに、小刀のようなもので、経文を彫った。これを、多羅葉経といって、たいへん貴重なものとされた。多羅と、たらは、木の種類が違うが、発音が同じだから、今後、この、ありがたい多羅の字を用いて、多羅尾と改めるがよい。」[6] 。
- 幕末時点では甲賀郡多羅尾村で、多羅尾氏による支配であった。「旧高旧領取調帳」の記載によると旗本領。
- 明治3年(1870年) - 大津県の管轄となる。
- 明治5年1月19日(1872年2月27日) - 大津県が改称して滋賀県となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の多羅尾村が単独で自治体を形成。
- 1953年(昭和28年)8月15日 - 多羅尾豪雨発生。土砂災害により住民44人と家屋269戸が土砂の下敷きとなった[7]。
- 1954年(昭和29年)9月1日 - 多羅尾村が信楽町・雲井村・小原村・朝宮村と合併して信楽町が発足。同町大字多羅尾となる。
- 2004年(平成16年)10月1日 - 信楽町が水口町・土山町・甲賀町・甲南町と合併して甲賀市が発足し、同市信楽町多羅尾となる。
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世帯数と人口
2019年(令和元年)8月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
2010年(平成22年) | 442人 | [8] | |
2015年(平成27年) | 359人 | [9] |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
2010年(平成22年) | 175世帯 | [8] | |
2015年(平成27年) | 164世帯 | [9] |
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
交通
路線バス
- 甲賀市コミュニティバス
- 多羅尾線
信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 江田 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 近江中野 - 多羅尾 - 多羅尾上出
信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 江田 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 六呂川 - 信楽温泉
信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 平和堂 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 六呂川 - 信楽温泉
信楽温泉発着は「江田経由」と「平和堂経由」に分類される。なお、多羅尾上出発着は「平和堂」を経由する便の設定が存在しない。
道路
施設
- 多羅尾簡易郵便局
- 甲賀市立多羅尾小学校
- JAこうか多羅尾
- 浄顕寺
- 里宮神社
- 信楽温泉多羅尾之湯
- タラオカントリークラブ
- デイリー信楽カントリークラブ
出身・関連著名人
- 森川温子、ミュージカル俳優
その他
日本郵便
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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