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内友会
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概要
片岡清一(1935年内務省入省)によると、戦後に内務官僚議員がまだ一度も首相になっていないことを憂い、三枝三郎(1940年内務省入省)や湯川宏(1941年内務省入省)ら衆議院議員と相談して、中曽根康弘(1941年内務省入省)を首相に就かせることを実現しようと自民党所属の内務官僚の政治家を呼び掛けたのが始まりである[1]。
初会合は1981年5月5日で、町村金五(1924年内務省入省)が自治大臣を経験したことにより勲一等旭日大綬章を前年11月3日に受勲していたので、お祝いを兼ねて内務官僚議員が集まった際に、内務官僚出身首相実現を目指す会合を開くこととし、初代会長に内務省人事課長だった町村が就任することとなった[2]。片岡によると、内務官僚出身首相が実現できそうなのは中曽根しかいないが、「内務官僚は知事を目指す志向があったことから一匹狼が多く、権勢や財界に頭を下げることを潔しとしないものが多い」「中曽根は先輩たちよりずっと前に政界(1947年衆院選初当選)に入っていたこともあり、内務省時代の先輩を君づけで呼ぶこともあって、内務省の先輩たちから評判がよくなかった」とし、中曽根に対して「それでは総理になれない。頭が高すぎるから少しは先輩に挨拶して、人心収攬術を心得るようにしろ。」として、中曽根の人間教育も兼ねていたという[2][3]。
「内友会」は春と秋に年2回ずつ会を開くことになった[3]。この内務官僚出身議員たちの結束による陰の支援もあって、1982年11月24日に行われた自民党総裁選で勝利して同月27日に中曽根は首相となった[4]。また中曽根政権の長期政権化もこの内務官僚出身議員たちの結束で支援した[4]。中曽根内閣では内務省官僚出身議員が閣僚に多く登用された。
「内友会」は中曽根内閣の誕生や存続において注目されるが、1987年11月6日に中曽根内閣が円満退陣して以降の動向は不明である。新聞報道として一番新しい「内友会」の会合として確認できるのは、1987年6月2日に開かれて中曽根首相が出席した「内友会」である[5]。
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所属議員一覧
要約
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脚注
参考文献
関連項目
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