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石破二朗

日本の官僚、政治家 (1908-1981) ウィキペディアから

石破二朗
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石破 二朗(いしば じろう、1908年明治41年〉7月29日 - 1981年昭和56年〉9月16日)は、日本内務建設官僚政治家。位階・勲章は正三位勲一等瑞宝章

概要 生年月日, 出生地 ...

参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。

第102-103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁である石破茂の父。

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略年譜

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石破二朗
本所厩橋警察署長の正装
昭和12年春)
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鳥取砂丘こどもの国駐車場に設置されている記念碑
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人物像

要約
視点

人柄・性格

  • 清貧と努力の人である。
  • 農本思想の持ち主である[21]
  • 儒教精神を尚ぶ。
    東京生活中毎週末帰省、病弱の夫人を見舞い、故郷の神社参詣、父祖の墓参りを欠かしたことはなかった。参院選の時、「私は鳥取県の人間である。鳥取に住み、鳥取にをつくる」と述べた[22]
  • 故郷を忘れず義と理に厚い[23]
  • 武士的性格である[24]

評価

  • 元鳥取県八頭地方農林振興局長の井上正太郎によると、
二朗さんの生家は、殿部落の市谷寄りにあり、前庭には古いの木がありました[25]。私の家とは二百米位の距離なので、子供の頃はよく遊びにいきました[25]。“二朗さん遊ばああ”と声をかけると、じょう口のあたりに、二朗さんの祖父の常七じいさんが、よく腰を下していて、“二朗や、正たんが遊びに来たぜ、早(はよ)う出んかいや”と大声で呼んで下さったものです[25]。その家もとうになくなりましたがの木だけは今も残っており、知事になられたときも、大臣になられたときも、郷土訪問の晴れ姿を見ていました[25]
…思い出は尽きませんが、最後に二朗さんの生家の隣りの老婆の語った思い出話を一つ記して終りとします[26]
「私がここに嫁に来た頃、六つか七つ位だった二朗さんが“この嫁さんはなんちゅう色の黒い嫁さんだあ”と言われたので大変恥(はず)かしゅうござんした[26]。その二朗さんが大きうなって高知から帰っておられたときのことです[26]。その年は二朗さんげの西瓜がたいへんようできて、お父さんが私に売ってきてくれといわれ、私の実家の方に売りに行った時です[26]
その時二朗さんが“あばさんわしが車を曳いてやる”といって草履ばきで荷車を曳き、安井から新興寺まで上り売り切れました[26]。そうしたら“あばさんは実家(さと)によって帰りない”といって一人で空車を曳いて帰ってごされたが、ほんに感心な人でしたぜ[26]」と。
「石破知事は自分が農家の生れということもあってのことかと思いますが、農林漁民に対して非常な愛情を注いでおられたことをひしひしと感じさせられたものでした[27]昭和三十六年に私が米子地方農林振興局長をしていた当時、管内の普及員を集めて“自分のおやじは珍らしいもの好きで、人より先にを栽培したり養蚕をはじめたりしたものだが全部失敗してしまった[28]。大体他人がよいことをやったのを見て二番目位を行くのが失敗がなくてよいと思うので、君等もよう心得て百姓の指導に当ってくれ[28]。”と言はれたことを肝に銘じております[28]
昭和四十七年頃であったと思いますが、倉吉市大河内部落の約百ヘクタールの分収造林が完成し、部落公民館で祝賀会が開かれ、知事のお伴をしたことがありました[28]。公民館といっても木造の古い建物でしたがその時かれこれ百三十人位の農家の人を前にしてされた挨拶の一部に次のようなことがありました[28]
“実は私も八頭郡山家の出身でして、子供の頃よくおじいに連れられて山に木を植えに行ったものでした[28]。おやじに言わせると、おじいの植えかたは技術が下手で杉の根もとのところが曲ってしまうということでしたが、それでもおじいは私に、こうやって木を植えておくとお前が分家するときに役に立つだけえなあと言って私をだまくらかして手伝わせたものでした[28]。その後その山も他人の手に渡ってしまいましたが、とにかく木を植えるということはええことだと今でも思っております”十年も前の何げない知事の挨拶が何故か私の脳裏に焼きついて忘れることができません[28]」という。
「石破さんといえば、われわれ旧内務省の後輩では“こわい人”で通っていた[29]。剛直そのもので温厚などとは程遠いお人柄で剛球をビシビシ投げ込む鉄腕投手の感があった[30](中略)めったなことに笑わない、いつもあごを引いてきびしい表情で真実を探求せずばやまないといった感じを受けた[30]…」という。

長男茂との関係

その他

太宰治永井荷風の著作物を好む[31]

宗教浄土宗

交友関係

田中角栄首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う[32]。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね[32]」と言った時「君は田中という人を知らんからだ[32]。実は自分が初めて鳥取県知事に立候補して現職知事(遠藤茂)との一騎討ちのきびしい選挙を戦い当落の決まる夜娘2人が東京の家でラジオの報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一緒に炬燵にあたって一喜一憂してくれたのだ[32]。当選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って帰ったそうだ[32]。これに心を打たれるではないか[32]。付け焼刃でできることではない[32]」と述べた。

1955年(昭和30年)に自由党時代の田中から東京都知事選挙に出馬するように請われたが、「東京都知事にはならない、鳥取県知事に請われればなる意志がある[33]」と答えた。田中は「何故日本で一番小さい鳥取県の知事を望むのだ[33]」とたずねると「私は鳥取県人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである[33]。小さくとも我が県は鳥取県である[33]」と明快に答えた。田中は「君が郷土を思う至情に打たれた[33]」と述べている。

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受章歴

家族

石破家

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二朗(後列右、昭和14(1939年)夏)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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