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内藤信正
安土桃山時代から江戸時代前期の武将・譜代大名。近江長浜藩2代藩主、摂津高槻藩主。従五位下紀伊守。江戸幕府 伏見城代、初代大坂城代。内藤信成の長男。内藤家(信成系)2代。子に内 ウィキペディアから
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内藤 信正(ないとう のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・譜代大名。近江国長浜藩の第2代藩主、摂津国高槻藩主。伏見城代を経て、初代大坂城代となる。
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生涯
永禄11年(1568年)、のちの長浜藩初代藩主・内藤信成の長男として生まれる。
天正12年(1584年)16歳で小牧・長久手の戦いに参加、その功を徳川家康に賞せられる(「寛永諸家系図伝」)。天正14年(1586年)には19歳で大番頭となり、同18年(1590年)の小田原征伐、19年の九戸政実の乱などに従軍した。
文禄4年(1595年)従五位下・紀伊守となり、また家督を継いで慶長11年(1606年)、長浜城に住した(※)。慶長20年(1615年)の大坂の陣では尼崎城の守備にあたり、同年閏6月采地をあらためて摂津国に移封され、高槻城を居所とした(高槻藩)。元和3年(1617年)伏見城代となり、1万石の加増を受けて摂津国内に転封、あわせて5万石を領した[1]。同5年から大坂城代を務める。寛永2年(1625年)知行を近江・山城・紀伊に移され、翌3年大坂城において死去した。享年59(以上「寛政重修諸家譜」)。
- 家督相続について、「諸侯年表」では慶長17年説を記すが、典拠とされている「藩翰譜」には所見がない。「寛政重修諸家譜」には「某年」とのみ記されており、正確には不明である。
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系譜
子女は「寛政重修諸家譜」が記すのは次の5男5女である。記載の順に示す。
父母
- 内藤信成(父)
- 粟生長勝の娘(母)
正室
- 石川康通の娘
子女
脚注
出典
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