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冨田三十士

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冨田 三十士(とみた みとし、1944年3月10日 - )は、長崎県出身のプロゴルファー

概要 冨田 三十士Mitoshi TOMITA, 基本情報 ...

来歴

要約
視点

1974年にプロ入りし[1]1975年中四国オープンでは上野忠美十亀賢二岡部洋三に次ぐと同時に増田光彦と並んでの6位タイ[2]に入った。

1979年の中四国オープンでは2日目に6位[3]、3日目に3位タイ[4]に着け、最終日には6位[5]に入った。

1981年阿蘇ナショナルパークオープンでは2日目に松本紀彦上田健次泉川ピート高橋五月と並んでの4位タイ[6]に着けた。

1983年ペプシ宇部トーナメントでは2日目に熊部稔中村通牧野裕グラハム・マーシュオーストラリア)、島田幸作船渡川育宏橘田光弘と並んでの7位タイ[7]、3日目には羽川豊・マーシュ・中村と並んでの6位タイ[8]に着けた。

1983年の大京オープンでは初日を横島由一豊田明夫川上典一と並んでの首位タイ[9]でスタートし、2日目には鈴木規夫宮本康弘と並んでの7位タイ[10]に着けた。

1985年の中四国オープンでは初日を渡辺司(西)と並んでの2位タイ[11]、2日目には首位に立った重信秀人と1打差で単独2位[12]に上がり、3日目には重信・渡辺と並んでの首位タイ[13]に浮上。最終日には重信・吉野展弘・渡辺・上野・坂本義一三上法夫・十亀を抑え[14]倉本昌弘の6連覇を阻止して優勝[15]

連覇を狙った1986年の中四国オープンでは初日を64で首位[16]スタートを決めるが、2日目には重信・倉本と並んでの7位タイ[17]に後退。3日目には5位タイ[18]に浮上し、最終日には吉野・重信と並んでの3位タイ[19]に入った。

1987年の中四国オープンでは初日24位タイ[20]→2日目16位タイ[21]から3日目には6位タイ[22]に浮上し、最終日には上野・倉本に次ぐと同時に十亀・奥田靖己河村雅之・重信を抑えての3位[23]に入った。

1994年からはシニア入りし、同年は旭国際ヴィンテージ5位[24]、HTBシニア8位タイ[25]日本プロシニアでは郭吉雄中華民国)・橘田光、エリュテリオ・ニバル(フィリピン)と並んでの10位タイ[26]であった[1]

1995年日本シニアオープン青木功の2位[27] に入り、賞金ランキング9位[28]に入った[1]

1996年は第一生命カップシニアで金井清一の2位タイ[29]2位タイ、コマツ名古屋テレビオープン3位[30]、日本シニアオープンでは金井・松井利樹と並んでの9位タイ[31]で賞金ランキング6位[32] [1]であった。

1999年には全日空・石垣島シニアプロアマで小林富士夫松井功と並んでの6位タイ[33]キャッスルヒルオープン海老原清治と並んでの2位タイ[34]、日本プロシニアで中山徹寺本一郎と並んでの6位タイ[35]、日本シニアオープンで海老原と並んでの2位タイ[36]に入る。宇部興産オープン[37]を最後にレギュラーツアーから引退し、第1回東京タワーシニアでは長谷川勝治・小林・藤間達雄・宮本・海老原・金井・草壁政治・中山を抑えて優勝[38]。TPCシニアでは渡辺由己と並んでの8位タイ[39]に終わったが、賞金ランキングではマーシュ・上野に次ぐ3位[40]に入った。

2000年は全日空・石垣島シニアプロアマの団体戦で川俣茂チームの2位、個人戦では天野勝と並んでの5位タイ[41]に入った。コマツオープンで田中文雄安田春雄と並んでの8位タイ[42]、HTBシニアでは中山と並んでの6位タイ[43]に入った。

2001年はオールドマンパーシニアで近藤守と並んでの8位タイ[44]に入り、2009年のPGA Handa Cupフィランスロピーシニア[1]を最後にシニアツアーから引退。

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主な優勝

レギュラー
  • 1985年 - 中四国オープン
シニア
  • 1999年 - 東京タワーシニア

脚注

外部リンク

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