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増田光彦

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増田 光彦(ますだ みつひこ、1937年12月1日 - )は熊本県出身のプロゴルファー

概要 増田 光彦Mitsuhiko MASUDA, 基本情報 ...

来歴

要約
視点

15歳からゴルフを始め、24歳でプロとなる[1]

1971年日本プロでは最終日・最終組で島田幸作尾崎将司と一緒に回り[2]、最後の9ホールに入ると、優勝の望みを絶たれたが、島田と共に、プレーのペースを速めた[3]

トップグループは杉本英世のスロープレーで2ホールくらい間が開いてしまったが、尾崎を追いかける杉本のプレーが実際視野に入れば精神的な重圧があるため、島田と共に尾崎を援護する[3]

試合には敗れたものの、その飛距離は新人であった尾崎に強烈な印象を植え付けた[4]。後に尾崎はインタビューに答え、「いやぁ、俺なんかより(体の比からいえば)増っさんのほうが飛ばし屋だよ」と言ったため、増田には『ミニジャンボ』『小さな飛ばし屋』『小さな巨人』[5]といった異名がついた[4]

中四国オープンでは1971年の第1回で2位に入り[6]1973年の第3回では十亀賢二金海繁細石憲二岡部洋三上野忠美を抑えて初優勝[7]1974年も優勝[8]して2連覇を果たし[1]、3連覇を賭けた1975年は上野・十亀・岡部に次ぐと同時に冨田三十士と並んでの6位タイ[9]に終わった。

1972年にはダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる第1回「フェニックストーナメント」[10]で初日を沼澤聖一松田司郎と並んでの7位タイ[11]でスタートし、2日目には佐々木勝草柳良夫能田征二と並んでの6位タイ[12]に着けた。

1974年東北クラシックでは3日目に石井裕士・島田・金井清一内田繁関水利晃ベン・アルダフィリピン)と並んでの5位タイに着けた[13]

1976年には阿蘇ナショナルパークオープン新井規矩雄と並んでの5位タイ[14]ゴルフダイジェストトーナメントでは杉原輝雄小林富士夫・金海・宮本康弘と並んでの8位タイ[15]に入った。

1977年広島オープンでは初日・2日目と共に69をマークして金本章生ロン・ヒンクル(アメリカ)と並んでの9位タイに着けた[16]

1977年のKBCオーガスタでは初日を横島由一栗原孝・尾崎将・青木功宮本康弘と並んでの9位タイでスタートし、好位置に着けた[17]

1978年の広島オープンでは初日に4アンダー68をマークして金井・菊地勝司と並んでの3位タイ[18]でスタートし、ジーン・サラゼン ジュンクラシックでは2日目に尾崎健夫・金海・関水と並んでの6位タイ[19]に着けた。

1980年岐阜関カントリー倶楽部開場15周年記念「岐阜関チェリーカップトーナメント」[20]では初日を野口茂重信秀人小栗正光と並んでの5位タイ[21]でスタートし、最終日には金本章生と並んでの3位タイ[22] [23]に入った。

1983年には日本プロで山本善隆磯崎功と並んでの9位タイ[24]に入り、マンシングクラシックでは初日に68をマークして首位タイの陳志明中華民国)・稲垣太成から3打差3位[25]に着けた。

1984年三菱ギャランでは初日を安田春雄前田新作伊能一郎小林恵一と共に4アンダー68の5位タイ[26]でスタートし、2日目には伊能と共に海老原清治牧野裕と並んでの9位タイ[27]に着けた。

1989年の中四国オープン[28]を最後にレギュラーツアーから引退。

KSB瀬戸内海オープン競技委員長[29]も務めたが、1983年には安田が前日21位から首位タイに浮上して十亀とのプレーオフになったが、最終組がホールアウトする前にコースを出る事件が発生[30]。プレーオフの権利を放棄することは罰則の対象ではなかったが、結局優勝は十亀、2位に安田と決まり、プロゴルフ界では以来、優勝争いをする者は最終組がホールアウトするまでコースの外に出ない、という取り決めが常識となった[30]

後に日本プロゴルフ協会副会長に就任し、1999年には日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞[1]

高松カントリー倶楽部ヘッドプロ時代には鈴木規夫を育て[31] [5]、後には息子の能成と都彦、娘の能子もプロゴルファーにしている[32]。  

鈴木がプロテストに出かける時には、当時使っていたドライバーのシャフトを1インチ短く切り、「これで戦ってこい」と手渡して送り出した[33]。鈴木は42インチの短いドライバーで受け、ボールは曲がらないため、力いっぱいフェアウエーに落とした[33]

現在は中四国プロゴルフ会名誉顧問[34]のほか、プロゴルファーになる前から興味を持っていた芸術の道に進み、1本の丸線材で細工するワイヤーアーティストとしても活躍[1]。作品はゴルフをモチーフにしたものから、最近は他のスポーツや踊り、楽器を使う人達など幅を広げている[1]

ワイヤーアートはレッスンにも使用したほか、コレクションやピンバッジとしても人気が高まり、現役時代から親しい交友がある松井功会長も太鼓判を押した[35]

ワイヤーアートのほかに彫刻粘土細工、盆栽なども趣味であり、コースの改造などを頼まれた時は、粘土でホールの模型を立体的に作って提案し、役員にも喜ばれた[35]

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主な優勝

  • 1973年 - 中四国オープン
  • 1974年 - 中四国オープン

脚注

外部リンク

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