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利用者:Quark Logo/sandbox小堀正次

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小堀 正次(こぼり まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代武将江戸時代前期の大名備中松山藩初代藩主。近江小室藩主家の祖。別名に秀言(ひでのぶ)。茶人として名高い小堀遠州(政一)の父。

概要 凡例小堀正次, 時代 ...
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略歴

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小堀新介屋敷跡[6]

天文9年(1540年)、小堀勘解由左衛門(正房)[2]の長男として近江国坂田郡小堀村[8]に生まれた。母は浅井氏の一族で、正室もその家臣・磯野員昌の娘。

初め戦国大名浅井長政に属したが、元亀年間(1570年〜1573年)の間に羽柴長秀(秀長)に仕えることになった[9]

天正12年(1584年)付けの9月と12月の『清水寺文書』に小堀新介秀言と署名した発給文書がある[10]

天正13年(1585年)、秀長が大和入国すると大和国葛上郡宇知郡の2郡で3,000石を知行し、大和・和泉紀伊の3カ国の郡代を務めた[9][11]。同年閏8月9日、秀長は正次に紀伊国内を検地を命じた[12]

天正17年(1589年)3月27日、豊臣秀次の湯治費用のための銀子を高野山の寺に課した発給文書に、新介正次と署名している[13]。秀長の配下では、寺社や検地に関する発給文書によく正次の名がでていくる。

天正19年(1591年)に秀長が没すると、秀吉の直臣として仕えることになり、大和葛下郡で1,000石、和泉国日根郡で1,000石の加増を受け、都合知行5,000石[9][11]。留守居番、勘定頭、政所を務めた。

慶長4年(1599年)、内府・徳川家康が伏見城に入ると、伏見の町奉行を務めた[9][14]


再び出家するが、またもや還俗して

最初は1,000石の知行だったが、長秀の元で政治手腕を買われて重用され、主に紀伊国大和国検地代官を務めた。紀伊や大和は寺社勢力が多く、検地が容易でなかった事からも、その手腕を買われていた事がわかる。長秀の居城であった姫路城で奉行として活躍。

その才は秀吉にも愛され、秀の字を偏諱されて秀言と改名するが、

に長秀が秀長と改名したことから、主人に憚って、正次の名に戻した。


さらに大和国葛上郡・葛下郡・宇智郡、和泉国日根郡の4郡内で5,000石が加増され、都合8,000石を領した[15]

天正19年(1591年)に秀長が没し、文禄4年(1595年)に秀保した後は、秀吉の直臣として仕えて、大和・和泉・紀伊の郡代に任じられた。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津征伐に従軍。

戦後、近江国で1万2,400石に加増された[1]が、備中松山に転封となり、備中で1万石を与えられ、併せて1万4,460石[3]を知行して、備中における天領の管理も任された。

また、備中や近江における幕府の検地などにおいても、大いに功績を挙げ、慶長6年(1601年)には伏見城の作事奉行も務めている。

慶長9年(1604年)、江戸へ参勤に向かう途上、藤沢で急死した。享年65[1](異説に63 [7])。跡は長男の政一が継いだ。


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系譜

  • 父:小堀正房
  • 母:浅井新兵衛某娘[3]浅井亮頼
  • 正室:磯野員昌
    • 次男:小堀政一(1579-1647)
    • 三男:小堀正行(1583-1615)
    • 四男:小堀正長
    • 六男(五男):小堀宗栄
  • 側室:橫濱氏
    • 五男(六男):小堀正春
  • 生母不明の子女
    • 長男:池田七左衛門[4] - 遠州の庶兄。遠州の弟子・江雲宗龍の父
    • 長女:伊東掃部某室
    • 次女:田中治兵衛某[5]

脚注

参考文献

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