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北条氏盛
日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将・大名。相模三崎城主北条氏規(戦国大名北条氏康四男)の子で、河内狭山藩初代藩主(1万1000石)。従五位下美濃守 ウィキペディアから
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北条 氏盛(ほうじょう うじもり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。河内狭山藩の初代藩主。通称は助五郎。官位は従五位下、美濃守。
生涯
天正5年(1577年) 、北条氏規の子として誕生。同17年、11月10に氏直のもとで元服し、北条氏直から通字を「氏」を授けられ、氏盛を称した。[1]
従兄にあたる後北条氏5代当主・氏直と督姫(徳川家康の次女)の養子となる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡した後、父と共に高野山に向かったが、やがて秀吉に許され、天正19年(1591年)、養父氏直が病死するとその遺領の一部である下野足利4千石の所領を与えられた。同年、陸奥の九戸政実の乱では、徳川家康に従って従軍している。翌天正20年(1592年)、朝鮮出兵で肥前名護屋に在陣した[1]。
慶長5年(1600年)、実父氏規が死去するとその家督を継ぎ、五大老筆頭の徳川家康からも河内狭山にあった父の遺領7千石を安堵された。こうして氏盛は計1万1千石の大名となり、狭山藩の初代藩主となった。同年、関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に属した、本領安堵されたが、足利4千石について都賀郡12ヶ村とされているため、知行替えがあったとみられる。家康の征夷大将軍就任後は徳川氏に仕えた。同6年5月11日には、従五位下・美濃守に任官している[1]。
慶長13年(1608年)に死去、享年32。法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門。墓所は専念寺(大阪市)。家督はまだ幼い嫡男の氏信が継いだ[1]。
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系譜
父母
正室
子女
- 北条氏信(長男)
- 北条氏利(次男)
- 北条氏重(三男)
出典
参考文献
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