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半沢士郎
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半沢 士郎(はんざわ しろう、 1945年6月19日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
要約
視点
鎌倉学園高では2年次の1962年にチームが春の選抜で準々決勝に進出するが、半沢の出場は無かった。同年の夏の甲子園県予選は決勝で慶應高と対戦し、7回にエースの永田善一(大毎)が打ち込まれ、リリーフとして登板するが3-8で敗れる。1年上のチームメイトに二塁手の竹之内雅史(西鉄・太平洋・クラウン、阪神)がいた。主戦投手となった3年次の1963年夏の甲子園県予選では、オーバーハンドからの威力ある速球で一試合平均10個の三振を奪うが、準決勝で井上健仁(東映)、平岡一郎(大洋、ロッテ)両投手を擁する横浜高に4-8で敗退。
卒業後の1964年に国鉄スワローズへ入団し、6月2日の中日戦(中日)で初登板。3回に渋谷誠司、石岡康三に次ぐ3番手でマウンドに上がり、7イニングのロングリリーフで中日打線から7三振を奪い初勝利を挙げた。翌3日も森滝義巳の2番手リリーフで好投したが、同7日の広島戦(広島市民)では山本一義に本塁打を浴びて初敗戦。同11日の巨人戦(神宮)では3回から渋谷のリリーフに立ち、8回を1安打に抑えて延長10回サヨナラ勝ちの勝利投手となる。7月1日の中日戦(中日)で初先発も勝敗は付かず、同25日の阪神戦(甲子園)で初完投勝利、同28日の大洋戦(川崎)では2度目の完投勝利で初安打を含む3打数2安打もマーク。その後も先発陣の一角として起用され、同年は8勝10敗の成績を残し、規定投球回(リーグ13位、防御率3.07)にも達した。8勝中6勝は大洋・広島・中日から2勝ずつ挙げたものである。2年目の1965年は4月25日の広島戦(広島市民)で延長10回完投勝利を挙げるが、これが現役最後の勝利となる。5月1日の中日戦(中日)に先発した後は肩の痛みに泣き、登板機会が無かった。3年目の1966年以降も肩の調子は戻らず、1967年10月17日の大洋戦(川崎)で2年ぶりに先発したが、佐藤一誠に本塁打を浴びて1回で降板。この試合が現役最後の登板となり、同年引退。
金田正一が「わしより速い」といったほどの直球[1]と度胸が売りであったが、怪我で開花しなかった悲劇の投手である。球速を実験されたこともあり、実験方法は、直径60cmのドーナツ型の円型機械を用意し、その内側にフォート・トランジスタ20個をはめ込む。放電して電気のカーテンの様なものを作り、この円型機械2つを36cm離して置き、2つの穴を投手が正確に通過すれば、ボールが最初の穴から2つ目の穴を通過する36cmに要した時間を100万分の1秒まで計測できた。これで半沢の球の秒速が42.6mと分かったが、時速にすれば153km超となる。しかもこの時の半沢はスパイク着用ではなく運動靴で、下はマウンドではなく、コンクリート床という条件であった。一方天才肌で、かわいがっていた金田が時に苦言を呈したこともあった[2]。
引退後はバーを経営していた。
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詳細情報
年度別投手成績
- 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に球団名を変更
記録
背番号
- 33 (1964年 - 1967年)
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脚注
関連項目
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