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南光明
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南 光明(みなみ こうめい、1895年(明治28年)6月30日 - 1960年(昭和35年)3月25日[1])は、日本の俳優である。現代劇から転向し、剣戟俳優となり、戦後も時代劇に出演した[1]。本名は鈴木 光である[1]。
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人物・来歴
1895年(明治28年)6月30日、東京市京橋区築地[2](現在の東京都中央区築地)に「鈴木光」として生まれる[1]。
1920年(大正9年)10月、本郷区春木町(現在の文京区本郷3丁目)に設立された松竹キネマ研究所に入り、小山内薫の指導の下、村田実監督による新劇の映画『路上の霊魂』に出獄者・鶴吉役で出演して、デビューした[1]。同作は松竹キネマが配給し、1921年(大正10年)4月8日に公開された。南は、同研究所が製作した3作にすべて出演した。同研究所は同年8月に解散、南は松竹キネマ蒲田撮影所に移籍した。
1923年(大正12年)、日活向島撮影所に移籍し、同年、溝口健二監督の『情炎の巷』で主演する[1]。当時の向島の現代劇は、女役も男性の女形が演じていたが、若山治監督の『哀愁の曲』では酒井米子と共演した[1]。同年9月1日の関東大震災で同撮影所は壊滅し、京都の日活大将軍撮影所に移転した。
1927年(昭和2年)には、時代劇俳優に転向した[1]。1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクションに移籍し、入社第1作としてマキノ正博監督の『蹴合鶏』に主演した。1928年(昭和3年)に主演した、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』は、高く評価された。1929年(昭和4年)当時の雑誌記事によれば、当時の身長は「5尺6寸5分」(171.2センチ)、体重は「19貫500匁」(73.1キロ)であった[3]。
第二次世界大戦後も時代劇に出演したが、1960年(昭和35年)3月25日、胃がんのために死去した[1]。満64歳没。生涯200本以上の作品に出演した。
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おもなフィルモグラフィ
- 『路上の霊魂』 : 監督村田実、1921年
- 『情炎の巷』 : 監督溝口健二、1923年
- 『813』 : 監督溝口健二、1923年
- 『哀愁の曲』 : 監督若山治、1923年
- 『学窓を出でて』 : 監督溝口健二、1925年
- 『皇恩』 : 監督溝口健二、1927年
- 『砂絵呪縛』 : 監督高橋寿康、1927年
- 『蹴合鶏』 : 監督マキノ正博、1928年
- 『崇禅寺馬場』 Sozenji Baba : 監督マキノ正博、1928年
- 『浪人街 第一話 美しき獲物』 : 監督マキノ正博、1928年
- 『浪人街 第二話 楽屋風呂 第一篇』 : 監督マキノ正博、1929年
- 『浪人街 第二話 楽屋風呂 解決篇』 : 監督マキノ正博、1929年
- 『正伝 高山彦九郎』 : 監督押本七之輔、1929年
- 『大化新政』 : 総監督マキノ省三、監督補助二川文太郎・稲葉蛟児・金森万象・マキノ正博・松田定次・中島宝三・押本七之助・吉野二郎
- 『学生三代記 明治時代』 : 監督マキノ正博・阪田重則・並木鏡太郎・久保為義、1930年
- 『噫! 南嶺三十八勇士』 : 監督井出錦之助、東活映画社、1931年
- 『北満の落花 大和桜』 : 監督井出錦之助、東活映画社、1932年
- 『錦西の血陣 古賀聯隊』 : 監督井出錦之助、東活映画社、1932年
- 『雪之丞変化』 : 監督衣笠貞之助、1935年 - 1936年
- 『蒙古襲来 敵国降伏』 : 監督秋山耕作、1937年
- 『残菊物語』 : 監督溝口健二、1939年
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註
参考書籍
外部リンク
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