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南淵年名

平安時代の公卿 ウィキペディアから

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南淵 年名(みなぶち の としな)は、平安時代初期から前期にかけての公卿は南淵朝臣因幡権守南淵永河の長男。官位正三位大納言

概要 凡例南淵年名, 時代 ...

経歴

淳和朝末の天長9年(832年文章生となり、翌天長10年(833年少内記に任ぜられる。仁明朝では丹波権大掾式部少丞蔵人を経て、承和8年(841年従五位下筑前守に叙任される。

文徳朝に入り、嘉祥3年(850年式部少輔として京官に復し、仁寿3年(853年)従五位上に叙せられる。斉衡3年(856年蔵人頭春宮権亮を兼帯し、天皇に側近として仕える一方で皇太子・惟仁親王にも身近に仕えた。文徳朝末にかけて天安元年(857年正五位下・式部大輔、天安2年(858年従四位下と順調に昇進した。同年11月惟仁親王の即位(清和天皇)に伴って正四位下に叙せられると、右大弁・左大弁と要職を歴任する。この間の貞観4年(862年)に参議以上の官職に就いている者に対して、時の政治に関して議論させ諸政策の効果について詳らかにせよとの詔勅が出された際、進士から内外の諸官を歴任して政務や法律に通暁しており既に弁官の要職にあることを理由に、参議以外の者で意見を述べさせるべき者の一人として推薦されている[1]

貞観6年(864年参議に任ぜられ公卿に列す。参議左大弁兼勘解由長官官職にあった貞観8年(866年)に応天門の変が起こると、参議・藤原良縄と共に伴善男の尋問に当たった[2]。のち議政官として、民部卿・春宮大夫などを歴任し、貞観14年(872年従三位中納言、貞観18年(876年)大納言、貞観19年(877年)正三位に至った。その学識の高さをもって清和天皇の信任厚く、『貞観格』『貞観交替式』や『日本文徳天皇実録』の編纂作業に携わった。

没年となった貞観19年(877年)には、小野山荘に大江音人藤原冬緒菅原是善と参議に名を連ねていた知識人を招き、日本初の尚歯会を開催したことでも知られる。同年4月8日薨去。享年70。最終官位は大納言正三位。

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人物

聡明で物事に明るく、度量もあった。政務に対して清廉をもって当たったという[3]

官歴

注記のないものは『六国史』による。

系譜

脚注

参考文献

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