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南淵永河

平安時代の貴族 ウィキペディアから

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南淵 永河(みなぶち の ながかわ)は、平安時代初期の貴族は坂田宿祢のち坂田朝臣、南淵朝臣。大和守坂田奈弖麻呂の三男。官位正四位下因幡権守

概要 凡例南淵永河, 時代 ...

経歴

朝野鹿取小野岑守・菅原清人らと共に春宮・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍読を務める[1]大同元年(806年少外記

大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い民部少丞に任ぜられ、弘仁4年(813年従五位下但馬介に叙任される。民部少輔・治部少輔備後守を経て、弘仁10年(819年)従五位上・権左少弁に叙任されると、弘仁11年(820年右近衛少将に右中弁、弘仁12年(821年)には正五位下・左中弁に蔵人頭を兼ねるなど嵯峨朝後半は文武の要職を歴任した。しかし、弘仁13年(822年)蔵人頭の官職を解かれている。

弘仁14年(823年淳和天皇の即位に伴って従四位下内蔵頭に叙任されると共に冷然院別当に任ぜられるが、まもなく越前守として地方官に転任する。同年12月には兄・弘貞と共に坂田朝臣から南淵朝臣に改姓している。のち、時期は不明ながら越中守に任ぜられるなど、淳和朝では地方官を務めた。天長10年(833年)従四位上。

仁明朝に入り、承和4年(837年備前守次いで大宰大弐に任ぜられるが、仁愛を以て務めとなし庶民に慕われたという[1]。またこの間に派遣・帰国した第19次遣唐使への対応にもあたっている。承和10年(843年)任期を終えて帰京したのち刑部卿に任ぜられるが、間もなく希望して地方官である播磨守に転任、承和12年(845年)正四位下・近江守に叙任された。

70歳を過ぎて辞官を請い、文徳朝では仁寿元年(851年)国の老臣として遙任下野守のち因幡守・因幡権守を歴任した。天安元年(857年)10月12日卒去享年81。最終官位は正四位下行因幡権守。

漢詩作品が『経国集』に採録されている。

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官歴

六国史』による。

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系譜

脚注

参考文献

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