トップQs
タイムライン
チャット
視点

原保太郎

日本の藩士、官僚、政治家 ウィキペディアから

原保太郎
Remove ads

原 保太郎(はら やすたろう、1847年8月11日弘化4年7月1日[1]) - 1936年昭和11年)11月2日[2])は、幕末園部藩士明治官僚政治家貴族院議員錦鶏間祗候神道無念流練兵館塾頭を務めた剣客としても知られた。

概要 生年月日, 没年月日 ...

小栗上野介を捕え、処刑した人物とされている。

Remove ads

経歴

園部藩士・原官次の三男として生まれる。江戸の練兵館で剣術を修行し、練兵館塾頭になったが、園部藩を脱藩して京都に上り、慶応3年(1867年)岩倉具視の食客となる[2]戊辰戦争では、東山道総督随行、上野国巡察使兼軍監として従軍した。その際、江戸幕府の元勘定奉行小栗忠順と家来3人を捕らえて斬首に処した。原が問答無用な形で斬首を強行した理由は判明していないが、当時はまだ22歳の若輩であり、総督府の命令といわれているが、功をあせる浅慮の極みとも言われている。原は後年「小栗は自分が斬った」と述べているが、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。

明治4年(1871年)にアメリカ合衆国へ留学し[2]ラトガース大学で学ぶ。1874年ごろにイギリスに渡り、原六郎と共にキングス・カレッジ・ロンドンで経済学などを学ぶ。1876年に帰国[2]

帰国後、兵庫県少書記、同県大書記官などを歴任し、1881年に第三代山口県令に就任した[2]1895年3月、日清戦争下関講和会議に出席していた清国大使李鴻章が狙撃される事件が起こり、その責めを負い知事を辞任した。同年7月、福島県知事に任命され復帰[2]。さらに、北海道庁長官、農商務省山林局長兼林野整理局長を務めた[2]

1903年7月15日、貴族院議員に勅選され[3]同和会に属し死去するまで在任した。1905年9月1日に錦鶏間祗候となる[4]。また、維新史料編纂会員なども務めた。昭和11年11月2日没。墓所は品川区海晏寺

Remove ads

栄典・受章・受賞

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads