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古田忠士
日本の野球選手 (1946-2014) ウィキペディアから
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古田 忠士(ふるた ただし、1946年7月31日 - 2014年5月13日[1])は、山口県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。1974年から1976年の登録名は古田 忠司。
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来歴
プロ入り前
早鞆高等学校では、主将として1964年の夏の甲子園に出場。エース亀井進を擁し、初出場ながら決勝まで進む。しかし決勝では、高知高の光内数喜投手(芝工大-鐘淵化学)に0-2で完封負け、準優勝にとどまる。三番打者、遊撃手として、四番打者の中村正義捕手とともに早鞆打線の中軸をつとめた。
プロ入り後
1965年に大洋ホエールズへ入団。1年目から一軍に上がり、2試合に二塁手として先発出場。その後は内野全般をこなすユーティリティプレイヤーとして守備固めを中心に起用される。
1970年には主に外野手として76試合に出場。うち6試合には外野手、二塁手として先発し、初本塁打も放った。
引退後
チームマネージャー、スカウト、スコアラーなどの球団職員を歴任し、52歳で退団した。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 53 (1965年 - 1970年途中)
- 31 (1970年途中 - 1976年)
登録名
- 古田 忠士 (ふるた ただし、1965年 - 1973年)
- 古田 忠司 (ふるた ただし、1974年 - 1976年)
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脚注
関連項目
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