トップQs
タイムライン
チャット
視点
吉田兼敬
ウィキペディアから
Remove ads
吉田 兼敬(よしだ かねゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿・神道家・歌人。神祇少副吉田兼起の子。官位は正二位。吉田神社の祠官、吉田家当主。
略歴
承応2年(1653年)吉田兼起の子として誕生。初名は兼連で、元禄10年(1697年)12月兼敬に改名した。
寛文2年(1662年)10歳で叙爵され、貞享元年(1684年)左兵衛督、同4年(1687年)神祇権大副を歴任。翌5年(1688年)正月従三位に叙され、公卿に列した。次いで元禄8年(1695年)12月正三位、宝永3年(1706年)正月従二位に昇叙。享保14年(1729年)12月、父祖の極位を超えて吉田家最高の正二位に叙される栄誉に浴した。同16年(1731年)12月17日に薨去、享年79。
祖父・兼英は生来病弱で、大伯父・萩原兼従は一子相伝の奥義を吉川惟足に伝授した。しかし、父・兼起も伝授を受けることなく明暦3年(1657年)に卒去したため、幼くして家を嗣ぎ、周囲の補佐を得て神道の教養を深めた。寛文5年(1665年)に諸社禰宜神主法度が発布され吉田家の権威が確立され、寛文8年(1668年)と同12年(1672年)に吉川惟足より返し伝授を受け、父祖の遺業の安定と拡充を図り家の基を固めた。
また、霊元天皇に『祓本』を相伝、次いで東山天皇に『祓本』を講じ、『御奉幣』『八雲神詠口訣』などの相伝にも奉仕した。
著作には『神道大意』『塩釜社縁起』『椋五所大明神由来』などがある。その他、『日本書紀』神代巻、『中臣祓』『六根清浄大祓』などの注釈書も遺しており、歌人としても知られ歌集も伝えられる。
Remove ads
系譜
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads