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大蔵善行

832-921?, 平安時代の学者。姓は忌寸(伊美吉)のち朝臣。菅原道真とは当時の学界の双璧で、『天神』道真に対して『地仙』と呼ばれた。唐名は蔵外史大夫。 ウィキペディアから

大蔵善行
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大蔵 善行(おおくら の よしゆき)は、平安時代前期の貴族・学者。玄蕃頭大蔵麻呂の曾孫。豊前権介・大蔵浄明の子。官位従四位下民部大輔

概要 凡例大蔵 善行, 時代 ...

菅原道真とは当時の学界の双璧で、「天神」道真に対して地仙と呼ばれた[1]。唐名は蔵外史大夫

経歴

貞観18年(876年を受けて蔵人所に出仕し諸書類の校正を担当すると共に、清和天皇に近侍する若年者および宮中の好事家に『顔氏家訓』を教授した[2]。のち、都良香の推薦で内記に任ぜられ、土佐権掾と地方官も務める。元慶6年(882年)少外記に転じ、翌元慶7年(883年式部少丞・高階茂範と共に存問兼領渤海客使に任ぜられ、渤海使の応接にあたった。

光孝朝に入り、仁和元年(885年)大外記に昇進すると、延喜2年(902年)まで20年近くの長きに亘り大外記を務め、機密文書作成に従事した。この間、仁和3年(887年従五位下、仁和4年(888年)従五位下、寛平9年(897年)従五位上に叙せられる一方、備前大目伊予権掾播磨権大掾三河権介治部少輔を兼ねた。

宇多朝末の寛平8年(896年勘解由次官に転ずるが、翌寛平9年(897年醍醐天皇が即位すると再び大外記に兼帯で復任し、延喜2年(902年)に民部少輔に遷るまでこれを務めた。のち、従四位下・民部大輔に至る。またこの間、『日本三代実録』『延喜格』『延喜式』などの編修に参与している。延喜8年(908年)致仕するが、延喜17年(917年東宮学士となり、86歳で皇太子保明親王に『漢書』を毎朝休むことなく進講したという。

また、私塾を経営し、藤原基経藤原時平藤原忠平平惟範三統理平紀長谷雄ら多くの人々に教授した。その一門は政・学界に広がった。以前は菅家廊下に対する存在と想定されていたが現在は否定的である[3]

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逸話

87歳で子をなし、90歳以上の長寿を全うしたと伝えられる[1]

官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

  • 父:大蔵浄明[6]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:大蔵邦明[6]
    • 男子:大蔵是明[6]
    • 男子:大蔵真明[6]

関連史料

脚注

参考文献

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