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宇倍野村
日本の鳥取県岩美郡にあった村 ウィキペディアから
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宇倍野村(うべのそん)は、鳥取県岩美郡にあった自治体である。
概要
現在の鳥取市のうち、旧国府町西部に当たる。袋川中流域に位置した。
合併前の国府村・法美村・御陵村は袋川を中心として開けた県下一の穀倉地帯であり、鳥取市に隣接して生産と消費がうまく調和していた。このためいち早く合併の話が進んでいたことから1907年(明治40年)に宇倍野という村名で合併して発足した。合併当時は世帯数806戸、人口5745人であり県下最大の村であった[1]。
戦後、県は財政の基礎を充実し行政水準を高めるためには小規模自治体は合併すべきとして1951年(昭和26年)9月に「町村規模の合理化に関する要綱」をたてた。1952年(昭和27年)6月、岩美郡町村合併促進審議会では当村・成器村・大茅村の3ヶ村が合併して1町村となることが交通的・経済的に至当であると答申したが、同年7月21日に県が出した合併勧告では鳥取市と周辺20ヶ村(岩美郡7ヶ村、気高郡13ヶ村)とされ、その中にこの3ヶ村が含まれていた。そのような状況の中で成器村と大茅村は以前から合併機運があったことからわずか1ヶ月の協議期間を経て同年11月に合併して大成村となった。しかし国が目標とするところの合理化案には程遠かったことから以来当村との合併話に発展していき、県は1956年(昭和31年)12月7日に当村と大成村の合併を勧告、これにより2ヶ村は合併して国府町となった[1][2]。
特産品は県内で最初に松保村で栽培が始められた二十世紀梨を1914年(大正3年)に高岡の川上正春が村内に取り入れた。平野部周辺の丘陵斜面を開墾して梨栽培が普及すると昭和初期には市場関係者の間で「東の宇倍野、中の東郷、西の八橋」と言われるほどの大産地となった[1]。
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沿革
行政
役場
1911年(明治44年)に役場位置の決定で村議会と村民との間で再分離にも及びかねない紛議が起こった。その後、各地区の代表者の話し合いにより町屋橋のたもとの民家を買収して役場とすることで決着した(後の国府町役場付近)[1]。
村長
教育
- 宇倍野村立宮ノ下小学校(現・鳥取市立宮ノ下小学校)
- 宇倍野村立谷小学校(後に国府町立谷小学校となり、現在は校地継承して鳥取市立国府東小学校)
- 組合立邑法第一中学校(所在地は鳥取市岩倉の旧歩兵第40連隊兵舎の一部、現在の鳥取市立岩倉小学校校地)
交通
主要施設
旧跡
出身者
- 岡田機外(俳人、奥谷村生まれ、1873年 - 1949年)
- 川上貞夫(洋画家・郷土史学者、1897年 - 1977年)
- 山崎秀子(看護師、フローレンス・ナイチンゲール記章受賞者、1903年 - 1962年)
脚注
関連項目
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