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宇野内閣
日本の内閣 ウィキペディアから
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宇野内閣(うのないかく)は、外務大臣、衆議院議員及び自由民主党総裁の宇野宗佑が第75代内閣総理大臣に任命され、1989年(平成元年)6月3日から1989年(平成元年)8月10日まで続いた日本の内閣。
閣僚の顔ぶれ・人事
要約
視点
国務大臣
- 在職日数69日
内閣官房副長官・内閣法制局長官
政務次官
前内閣の政務次官が9名留任した。
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勢力早見表
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- 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
- 太字は自民党総裁並びにいわゆる自民党三役。
- 内閣官房副長官(政務)は政務次官に含む。
内閣の動き
要約
視点
リクルート事件の責任を取って竹下登が辞任し、前の竹下改造内閣は退陣した。間近に主要国首脳会議(サミット)を控えて、早急に次期首相・自民党総裁を決めなければならない中、自由民主党の有力者が軒並みリクルート事件に絡んでいたため、身動きがとれなくなっていた。そこで、竹下改造内閣の外務大臣で、リクルート事件と関係も薄い宇野宗佑が、急遽自民党総裁に抜擢されて首相に就任し、組まれたのが宇野内閣である。宇野自身は資産家の子弟で、金銭的にはクリーンなイメージがあった。閣僚には、リクルート事件と関係の薄い者を優先的に登用することで、世論のイメージアップも図られた。同内閣は竹下登前首相の後継指名による事実上の第二次竹下内閣[1]、「竹下院政」、「竹下直系」といわれ[2]、竹下派の小渕恵三と小沢一郎が宇野にはかることなく人事を勝手に決めた[2]。当時の新聞も「党三役人事など竹下派幹部から、こう決まった。と一方的に連絡があっただけだ」と安倍派幹部はこぼし、中曽根派の櫻内義雄会長は「宇野君は婿養子に行ったようなものだ」とまで語っている(1989年6月19日付日経夕刊)[2]。宇野が世間的には知名度が低いことや選出の経緯から他の自民党議員からは反発も強かったとされ、リクルート事件で疑惑の対象となったのは主に中曽根派で宇野がその中曽根派の番頭格であったことから中曽根亜流との批判もあった[3]。
就任わずか3日後に宇野自身に週刊誌報道による女性問題が発覚してしまう。元芸者が愛人となった過去を自ら告白、様々な女性団体から抗議や説明を求める声、さらには退陣要求の署名運動が起こった[4]。この「首相の女性問題」に、先の「リクルート事件」、「消費税導入」の3点セット(ただし、当時のNHKは「女性問題」を「農政」(輸入自由化)に差し替えた)により、同年7月に行われた第15回参議院議員通常選挙で、自由民主党は獲得議席数36議席と過半数を割り込み、結党以来の惨敗を喫した。
この責任を取って参議院選挙投票日翌朝に宇野は退陣を表明[5]。翌月には海部俊樹が後継総裁に選出され、宇野内閣は僅か在任期間69日間の短命内閣に終わった。この在任期間69日は第1次岸田内閣、第1次石破内閣、東久邇宮内閣、第3次桂内閣(第1次と2次を合わせれば、今までの歴代内閣では安倍内閣に次ぐ2番目の長期である)、羽田内閣、石橋内閣に次ぐ史上7番目の短命である。また、第3次桂内閣を除いた戦後だと、6番目の短命内閣である。大型国政選挙を経験した内閣としては戦後2番目の短命内閣である。地方選挙ではあるが6月に東京都議会議員選挙も行われ、第2党の日本社会党が肉薄する惨敗となった。
この宇野宗佑内閣時代に起こったトピックスとしては、
- 中国の北京での天安門事件の発生(6月4日)と竹下内閣で決定されていた第三次対中円借款の凍結(6月20日)
- ビルマ連邦がミャンマーに国名を変更(6月18日)
- 美空ひばりに没後国民栄誉賞を授与(7月6日)
- 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件容疑者の逮捕(7月23日に別件逮捕、その後本件で再逮捕)
が挙げられる。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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