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宮地信貞
江戸時代の土佐藩士 (1748-1825) ウィキペディアから
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宮地 信貞(みやじ のぶさだ、1748年(延享5年/寛延元年)- 1825年10月7日(文政8年8月25日))は、土佐藩士、大和流弓術の師範[1]。字は「順右衛門[2]」。自由民権家・宮地茂春の曾祖父。坂本龍馬の大叔父にあたる[3]。
来歴
生い立ち
延享5年/寛延元年(1748年)、土佐藩郷士・山本信敬(伴蔵)の次男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる[1]。前名は「山本謙二」、諱は「信貞[4]」。実兄の山本信固(覚右衛門)は、坂本龍馬の実祖父にあたる[3]。
安永元年(1772年)、土佐藩 第9代藩主・山内豊雍の時代、新規召出され、三人扶持・切米八石五斗を下し置かれる[2][1]。
弓術家として
藩主・山内豊雍の参勤に従って江戸へ出、土岐美濃守家中の弘瀬左近右衛門に大和流弓術を学ぶ[1]。
翌年、藩主の供をして帰国したが、のち、自力で江戸に出て弘瀬氏の允可を受けた[1]。
天明3年12月(1783年12月下旬 - 1784年1月上旬)、叔父で潮江村郷士・宮地倫(伴七)の養子となり、祖父の氏である「宮地」に復す[2][1][5]。
天明年間、鏡川が氾濫し潮江村に大水あり、大橋堤防を修繕の時、人夫400余名の飯米を請負う[6]。
白札郷士に昇格
寛政12年(1800年)、弓術導方を命ぜられ御歩行格に進み、文政5年(1822年)、積年子弟育成の功により、白札郷士に昇格し上士格に列す[2]。子孫も受け継いで、大和流弓術が軽格の士に広まった[7]。
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家族
宮地家の遠祖は、伝承によれば日本武尊の第四王子・建貝児王(タケカヒノミコ)に発し、その子孫・宮道信勝が山城から土佐に下向して、高視(菅原道真の長子)に仕えたと称する。後に高視より授けられた菅原道真の遺品(鏡・剣)を御霊代としたのが土佐の潮江天満宮の起源とされ、土佐郡潮江村・宮地氏の宗家が代々同社の宮司を務めたというが年代が合わない。 [8]。
→詳細は「坂本龍馬の系譜」を参照
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補註
参考文献
参考史料
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