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宮地茂春

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宮地 茂春(みやじ しげはる、1860年安政6年) - 1895年明治28年)6月11日)は、江戸時代末期の土佐藩白札郷士。自由党員。自由民権活動家。幼名は桃太郎(ももたろう)。

来歴

生い立ち

土佐藩白札郷士(上士)・宮地茂樹(甚蔵・自然)の長男として土佐国土佐郡潮江村上町に生まれる。母は池田秋足(銘次)の娘[1]

慶応3年5月5日(1867年6月7日)、8歳の時、嫡孫御目見を仰せ附けらる[1]

自由民権運動活動期

長じて立志学舎に学び、民権自由論を修める。

明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に参加[2]。 同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動し、北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎板垣鉾太郎乾正士らがいた[2][3]

明治13年(1880年)、国会期成同盟の結成大会に参加。

明治14年(1881年)、板垣退助に師事して東北遊説に随行。

明治15年(1882年)、板垣退助の東海道遊説に随行。板垣の岐阜遭難事件の直後には末広座で聴衆1000人に対して演説を行う。同日の弁士には安芸喜代香らがいた。

明治16年(1883年)1月29日板垣退助の次女・軍子と結婚する。翌年長男・宮地茂秋が誕生。

明治28年(1895年)6月11日歿、享年36歳。墓は東京青山霊園(1ロ-21-1[4])にある。

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家族

宮地家の遠祖は、伝承によれば日本武尊の第四王子・建貝児王(タケカヒノミコ)に発し、その子孫・宮道信勝が山城から土佐に下向して、高視(菅原道真の長子)に仕えたという。後に高視より授けられた菅原道真の遺品(鏡・剣)を御霊代としたのが土佐の潮江天満宮の起源とされ、土佐郡潮江村・宮地氏の宗家が代々同社の宮司を務めた[5]。宮地茂春は、社家の子孫で土佐藩白札郷士を務めた家柄。坂本龍馬板垣退助武市瑞山福岡孝弟の親戚にあたる[6][7]

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補註

参考文献

参考史料

関連項目

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