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宮城浩蔵
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宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4月15日) - 1893年(明治26年)2月13日[1])は、日本の刑法学者、政治家。明治法律学校(のちの明治大学)創設者の一人。衆議院議員。

人物
ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。ボアソナード起草にかかる旧刑法下で、フランスの刑法理論である新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献し、「東洋のオルトラン」と呼ばれた[2]。なお、オルトランはボアソナードの師である。
その後、宮城の刑法理論は、資本主義の発達に伴う累犯の増加に対応できないとして新派刑法理論の立場から批判された[誰によって?]。
民法典論争では、梅謙次郎と共に施行断行派に与したが、その最中腸チフスのため42歳で急死した。墓所は谷中霊園。
経歴
- 出羽国(現山形県)にて天童藩御典医の武田玄々(直道)の次男として生まれる[4]
- 1865年 - 天童藩士宮城瓏治の養子となる。
- 1870年
- 1876年 - 司法省明法寮を第一期生として卒業し、パリ大学に入学。
- 1880年
- 1881年 - 岸本辰雄・矢代操と共に明治法律学校を創設。
- 1886年 - 司法省参事官となる。
- 1888年 - 明治法律学校教頭になる。
- 1890年 - 刑法改正案起草委員を命ぜられる。第1回衆議院議員総選挙に山形1区より立候補し当選。
- 1891年
- 4月 - 東京代言人組合会長に就任。
- 12月 - 帝国議会で商法施行延期法案反対演説を行う。
- 1893年 - 逝去(享年42)。
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栄典
著書
記念碑
脚注
関連項目
関連文献
外部リンク
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