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尾崎加寿夫
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)でプレーした選手となった[1]。
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クラブ来歴
三菱重工時代
日本大学高校では3年次の1977年に全国高校サッカーに出場し、卒業後の1978年に三菱重工へ入社。1979年10月には三菱の4年ぶりのJSL制覇に貢献し、アシスト王と日本年間最優秀選手賞を受賞。この頃のメディア等では「若大将」と表現される事もしばしばあった。
ドイツ時代
1983年6月には1984年のロス五輪出場に向けて重要なトレーニングとなるジャパンカップ'83を体調不良を理由に欠場するが、この期間に無断で渡独しアルミニア・ビーレフェルトの練習に参加していた事が発覚すると、選手規定に抵触するとして大問題に発展した。嘘をついて渡独したとして、尾崎に対する風当たりは一気に強くなったが、ロス五輪出場への重要な戦力として尾崎を日本に留めたいサッカー協会、そして本場でプロとして挑戦したいという尾崎という、互いの思惑がぶつかった結果の騒動であった。この「尾崎問題」は7月に三菱が尾崎の意を汲むかたちで退部処分にしたことにより解決し、尾崎はフリーとなり、問題なく協会も移籍証明書を即発行してビーレフェルトとプロ契約を交わすことができた[2]。最初の年俸は約1000万円といわれている[3]。
強力なシュートが評価された尾崎は、8月13日にブンデスリーガ日本人2人目のプロ選手としてデビュー。初戦の1.FCケルン戦で先発出場を果たすと、前半に左から鋭く切れ込み西ドイツ代表の守護神ハラルト・シューマッハーを破り初得点となる同点ゴールを記録。強豪相手の逆転勝利に貢献するという鮮烈なデビューを飾ると、11月5日の13節のブレーメン戦で実現した奥寺との日本人対決は、ドイツでも大きな注目を浴びた。これが海外での日本人選手同士の初対決となったが[4]、結果はブレーメンが3-0で勝利した。1986年にビーレフェルトはツヴァイテリーガ(2部)へ降格するが残留しプレーを続けた。
1989年にはオーバーリーガのTuRUデュッセルドルフに移籍。ドイツでは1部リーグで62試合出場9得点、2部リーグで57試合出場9得点という通算成績を残している。
国内復帰
1990年に古巣の三菱自工へ復帰し、1993年にはヴェルディ川崎へ移籍。リーグ戦に2試合出場し、シーズン終了後に現役を引退。
日本リーグ通算78試合出場、20得点。国際Aマッチ17試合出場、3得点。
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代表経歴
1979年には日本ユース代表の主将としてワールドユースに出場したが[5]、0勝2分1敗で1次リーグ敗退に終わった。この頃はドリブルで切り崩してゴール付近まで突破するスタイルと、得点後にジャンプしながらガッツポーズするシーンが多く見られた。
1981年には日本代表に選出され、1982年6月にはジャパンカップキリンワールドサッカー'82に出場し、フェイエノールト戦で4得点を挙げるなど、計6得点と活躍[2]。この時には奥寺康彦が所属するヴェルダー・ブレーメンも来日していた。7月には日本代表として西ドイツ遠征に参加し、この時に対戦したビーレフェルトのホルスト・ケッペル監督に練習への参加を要請される。
所属クラブ
- 日本大学高校
- 1978年 - 1983年
三菱重工
- 1983年 - 1988年
アルミニア・ビーレフェルト
- 1988年 - 1989年
FCザンクトパウリ
- 1989年 - 1990年
TuRUデュッセルドルフ
- 1990年 - 1992年
三菱自動車/浦和レッドダイヤモンズ
- 1993年
ヴェルディ川崎
個人成績
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)2回出場(1982年、1991年)
その他の公式戦
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代表歴
出場大会など
- 1979 FIFAワールドユース選手権
- アジア競技大会(1982)
試合数
- 国際Aマッチ 17試合 3得点(1981-1983)
出場
得点数
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脚注
関連項目
外部リンク
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