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尾茂田叶
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尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 1997年1月7日[1])は、アメリカ合衆国・ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれのプロ野球選手(外野手)[2]。アメリカ人日系2世。
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来歴・人物
12歳の時父の故郷である広島県に引き揚げ、その後母の故郷・愛媛県に移る[2]。日本に来てから野球を始めた。松山商業では1928年に第5回選抜中等学校野球大会へ出場。1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会ではベスト4。その後明治大学を経て、1937年に東京セネタースの横沢三郎監督に勧誘され入団。1938年秋季リーグで打率.300を打ち、リーグ3位の打率を記録した。1番苅田久徳とのノーサインでのヒットエンドランを得意とした。守備範囲の広い名外野手で、松山商業時代にコーチから受けた砂場の特訓で身に付けた回転捕球法は尾茂田の看板プレーだった[2]。1939年に退団し、1940年に召集を受け南方戦線に送られる。戦地で腸チフスを患いながら生き抜き、ニューギニアで終戦を迎える。
終戦後、市岡忠男から巨人に勧誘されたが進駐軍の仕事についていたため断り、母校松山商業や社会人野球の丸善石油、愛媛相互銀行で監督を務めた。その後、外国人相手に道後温泉でボランティアガイドを務めた[2]。1997年、松山市で死去。享年87歳。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 5 (1937年 - 1939年)
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脚注・出典
関連項目
外部リンク
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