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山口幸司 (野球)
日本のプロ野球選手 (1970 - ) ウィキペディアから
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山口 幸司(やまぐち こうじ、1970年4月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
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来歴・人物
大宮東高では、2年生時の1987年に夏の県大会で決勝に進出するが、鈴木健擁する浦和学院高に大敗[1]。翌1988年夏の県大会でも、準決勝で市立川口高に敗れて甲子園出場は果たせなかった。高校通算56本の本塁打を放ち、超高校級のスラッガーとして有名だった。また、高校の2学年後輩には北川博敏がいた。
法政大学へ進学の意向だったが、1988年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けると、星野仙一監督が翌日に直接学校へ訪れるなど熱心な誘いから入団する。
1989年から一軍初出場を果たす。
1991年には一軍に定着。強肩俊足を買われ、主に中堅手として35試合に先発出場した。プロ入り後は周囲のアドバイスもあり、守備や走力を活かしたプレースタイルに変えた。彦野利勝の故障で、長嶋清幸、南牟礼豊蔵らと定位置を争う。
1992年も準レギュラーとして活躍するが、その後は伸び悩み、故障もあって出場機会が減る。
1995年には復活し、チャンスメーカーとして35試合に先発出場、打率.285の好成績を記録した。その後も外野手として活躍するが、故障が多くレギュラーには届かなかった。
1999年は一軍出場が4試合に終わり、戦力外通告を受けると他球団からも声がかからずに引退となった。
その後は星野監督の伝手で自動車関連の会社で5年勤務の後に地元・埼玉のスポーツジムへ転職するも倒産に伴い、関連企業のアイダ設計へ入社した[2]。
1991年6月18日、ナゴヤ球場での対横浜大洋ホエールズ戦で、彦野利勝が盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放った際、一塁ベース付近で左膝靭帯を負傷して走塁できなくなり退場、山口が代走に送られホームインした。本塁打を打った選手が走塁不可能となり代走が出されたのは、プロ野球史上2例目の珍事であった。1990年以降、代走に起用されたランナーはヘルメット着用が義務付けられているが、急遽山口に代走が告げられたことや、本塁打の代走であるためか、山口はヘルメットではなく帽子を被ったままベースを一周している。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 9(1989年 - 1994年)
- 00(1995年 - 1999年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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