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山名義徳
日本の江戸時代中期~後期の武士 ウィキペディアから
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山名 義徳(やまな よしのり)は、江戸時代中期の交代寄合。但馬国村岡領主。
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経歴
元文5年3月8日(1740年4月4日)に 筑後柳川藩第5代藩主・立花貞俶の八男として柳川藩江戸藩邸において出生した。立花氏時代は、同藩第7代藩主となった兄の立花鑑通(初め鑑致)から1字を賜り、立花致知(よしとも)[1]と名乗っていた。宝暦5年(1755年)から通称を靱負と称した。
人物
- 実兄(同母兄)は柳川藩一門の立花監物家2代目・立花致真(よしざね)。致真の娘・天寿院は立花鑑寿(鑑通五男)の正室であった。
- 甥にあたる柳川藩家老の立花通栄(織衛)との文書のやりとりが、「立花織衛家文書」に残っている。
- 家川念流剣術を習得しており、織衛文書に拠れば柳川藩士に念流剣術奥義を相伝している[3]。
- 書画の才にも造詣が深く、狩野派・加藤文麗に付き画を学んでいた。雅号は文鶴と名乗っていた。


系譜
脚注
参考文献
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