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山本尚敏

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山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - 生死不明 )は、神奈川県出身のプロ野球選手内野手外野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

関東中学校では、1934年の夏の甲子園に出場[1]。卒業後は日本大学に入学するが、中退して簡易保険局でプレーした。

1936年大東京軍結成に参加する。1938年秋になると大友一明に代わって正二塁手に入り、1939年には松岡甲二との併用であったが遊撃手としてチーム最多の61試合に起用され、打率.189ながら規定打席に到達した(リーグ55位)。この年の10月20日の対阪急軍戦では日本プロ野球記録となる同一守備位置(遊撃手)での5失策を犯している[注釈 1]

戦後は1946年中部日本に入団して日本プロ野球に復帰。主に内野手の控えを務めるが、1947年に代走で12試合に起用されると、翌1948年には代走として18試合出場で20盗塁を記録。代走での20盗塁は長らく日本プロ野球記録であった[注釈 2]。シーズンでも26盗塁に対して失敗はわずか2で.929の高い成功率を挙げた。また、この年の7月5日対阪急戦では8回に代走に起用されると1イニングで二盗を2度成功させる珍記録を作っている。同年限りで退団・引退。

引退後は接骨院を経営した[1]。弟の山本秀男山本達男もプロ野球でプレーしている[2]

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選手としての特徴

打力に難があって出場機会は限られていたが、よく代走に起用されては投手のモーションを盗んでディレードスチールを成功させていた[3]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大東京(大東京軍)は、1937年秋季にライオン(ライオン軍)に球団名を変更
  • 中部日本は、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更

記録

その他の記録

背番号

  • 15 (1938年 - 1940年)
  • 6 (1946年 - 1948年)

参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

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