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岸岱
1782ca-1865, 江戸時代後期の絵師。岸派の2代目 ウィキペディアから
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岸岱(がんたい、天明2年(1782年)[1]または天明5年(1785年)[2] - 元治2年2月19日(1865年3月16日[3])は、江戸時代後期の絵師。岸駒の長子に生まれ、岸派の2代目として継承・発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。
経歴
父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという[4]。文化5年(1808年)従六位下筑前介に任ぜられ[2]、その翌年、父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描く。文政8年10月に正六位下に[2]、天保7年(1836年)には越前守に進む。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画の制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させた。嘉永6年(1853年)従五位下筑前守に叙す[2]。安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。
岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いた。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って掲載され、しかも7番目から少なく11番目という上位に掲載されており、当時の人気のほどが窺える。その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作風を示す。金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画している。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けた。
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代表作
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脚注
参考文献
外部リンク
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