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左幸子

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左幸子
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左 幸子(ひだり さちこ、1930年6月29日 - 2001年11月7日)は、日本の女優、映画監督。富山県下新川郡朝日町出身。本名:額村 幸子。

概要 ひだり さちこ 左 幸子, 本名 ...

妹は同じく女優左時枝。元夫は映画監督羽仁進1959年結婚、1977年離婚)。娘はエッセイスト羽仁未央

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来歴・人物

要約
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1952年
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1955年

骨董店を営む両親の三男五女の長女として生まれる。母は華道の指導者でもあったという。

東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、都立第五商業高校ならびに國學院大學久我山中学校の体育・音楽教師をしながら俳優座の委託生となり演技を学ぶ。女優の左時枝は末妹にあたる。

1951年に『家庭よみうり』のカバーガールを務めたことから新東宝野村浩将の目にとまり、1952年に野村の勧めで『若き日のあやまち』に主演。

1957年の『幕末太陽傳』では遊郭の人気女郎おそめを演じ、おそめと人気を争う女郎こはるを演じた南田洋子と好演した。

そして、1963年、『にっぽん昆虫記』で貧しい農村で職業を転々としながら売春組織の元締になっていく女性を演じ、『彼女と彼』と合わせて日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得した

1965年、『飢餓海峡』では純朴な娼妓・杉戸八重を演じて毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。

一方、1977年には『遠い一本の道』監督・主演。当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、田中絹代に次ぐ女優監督となった。

テレビドラマでは『北の家族』(1973年)『赤い絆』(1977年~1978年)『大市民』『野のきよら山のきよらに光さす』[1]などに出演した。 1965年1月4日から1965年5月31日まで音楽番組『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会も担当した。ワイドショーの司会をした事があるが、番組中で沖縄国会強行採決を批判した政治的発言により降板した[2]

1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活大映(1958年 - )に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず活動、1962年にフリーとなる。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重視し、演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。[2]

私生活では、1959年に映画監督の羽仁進と結婚[3]。1964年に長女・未央を出産。しかし、1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で当時羽仁のマネージャーを務めていた額村喜美子[4]と不倫関係にあったことを人づてに知り、ショックを受け自殺を図るが事なきを得た[3]。このこともあり1977年、離婚し未央は父側に付き[5]、羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚した[3]

1987年胃癌のための摘出手術を受ける[2]1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしたが、その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心になっていった。晩年は『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)のレギュラーパネリストとして出演している。

2001年に入ってからせき込むようになり検査を受けた結果肺がんが見つかり、9月下旬に国立がんセンターに入院するが、10月下旬に容体が急変し危篤に陥った。

2001年11月7日水曜日)午後8時40分、国立がんセンターで親族に囲まれ、息を引き取った[2]。71歳没[3]。品川での密葬の際、羽仁・喜美子夫婦だけでなく実娘・未央も、幸子と(離婚後)親交がないとして参列しなかった[3]

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出演

映画

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幕末太陽傳』(1957年)
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彼女と彼』(1963年)
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にっぽん昆虫記』(1963年)
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飢餓海峡』(1965年)

テレビドラマ

オリジナルビデオ

バラエティ

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脚注

外部リンク

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